『ただ今救うの仰せとは、今称えられる所の南無阿弥陀仏です。』と教えていただきましたが、とても南無阿弥陀仏がただ | Peing -質問箱-
質問箱には、以下のように書きました。
思えない時は思えません。ただ、教えという点では南無阿弥陀仏は本願招喚の勅命です。私の救われる道は他には有りませんので、そういう南無阿弥陀仏であると称え聞いて下さい。
最初から「南無阿弥陀仏がただ今救うの仰せ」と思えないというのは私もそうでした。お聖教に書かれているからと言って、それが全ての人にとってすぐ「そうだな」と思える事ばかりではありません。
また、お聖教でも「念仏以外では救われがたい」ことを示して、念仏の救いを明らかにされています。
法然聖人は選択本願念仏集でこのように書かれています。
弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集 (七祖) - WikiArc
・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)
念仏以外の行による救いでは、全ての人を救う事が出来ません。全ての人を救う為に、称名念仏一行をもって本願の行として選ばれたのだと言われています。
聞いている側としては消去法で、「念仏しかないのか」と思います。ただ多少なりとも自分で頭を働かせてみると、他に私の往生の道は有るのでしょうか?
「南無阿弥陀仏がただ今救うの仰せ」と思えてから聞こうとすると、いつまでも聞く事は出来ません。それは分かってから聞くと同じだからです。「分かって」聞くとなりますと、その「分かって」はあくまで自分が「分かった」範囲の話になってしまいます。何かしら合点したのと変わりません。
しかし、「南無阿弥陀仏以外に私の往生の道はない」ということは分かるのではないでしょうか。「何で」助かるのかと言う事については、上記のご文でいえば「造像起塔等の諸行」ではありません。阿弥陀仏の本願は「称名念仏一行」で助けるという本願を建てられました。
それもただ今助けると呼びかけられていると親鸞聖人が仰ったのが「本願招喚の勅命」です。
「ただ今助ける」ですから、「何時かは」ではありません。そのうち助けるとの仰せではありません。
ただ今救うの仰せですから、ただ今救われてください。
参照 記事中の選択本願念仏集前後の文
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等のP--1210慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
ゆゑに法照禅師の『五会法事讃』にいはく、
「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん」と。{以上}