安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏を相続すれば自然に三心は具足するについての質問」(園児さんより)

anjinmondou.hatenablog.jp
に頂いたコメントについて書きます。

園児 2020-08-13 08:51
原文:又人目をかざらずして往生の業を相続すれば自然に三心は具足する也。
解説文:これは、念仏を相続すれば自然に三心は具足することを、例えて言われたものです。
を拝見しまして、相続について二つの考えが浮かびました。

➀私が日々念仏を称え続けていくと三心が備わってくる
➁相続する心も阿弥陀仏からいただくので信心獲得したときに三心が備わる

親鸞聖人が教行信証の中で他力の信心を様々に言いかえた一念転釈の中に「相続心」がありますが、法然上人も阿弥陀仏からいただく心として「相続心」をとらえていたのでしょうか?そうすると②の解釈となります。

それとも法然上人は①のように日々の念仏の積み重ねが大事であることをおっしゃっているのでしょうか?

法然聖人が念仏をどのように受け取られていたかということですが、最初に結論を書くと①とも②とも言えるということです。

法然聖人にとっての念仏は、阿弥陀仏が選び取られた行としての念仏です。
そのことは、選択本願念仏集にこう書かれています。

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(選択本願念仏集・教行信証行巻・三選の文)

称名念仏するものは、必ず浄土に生まれられる。それは、仏の本願によるからだと言われています。
法然聖人にとっての念仏は、「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる」と誓われた本願によって選び取られた行です。

ですから、法然聖人にとっての念仏を称え、また人に勧めるというのはいわゆる「廃悪修善」の意味ではなく、阿弥陀仏が選ばれた念仏の道を進むことという意味がありました。その意味で①でいう「日々の念仏の積み重ねが大事である」とは言われています。
実際に、法然聖人自身も、一日に六万遍、七万遍の念仏を称えておられました。そのように聞くと、比叡山の修行のような意味で念仏をされていたように感じますが、それは違います。あくまで、本願で誓われた通りに念仏を称え続けられたという意味でされていました。

そのことをこのように言われています。

ただ一念二念をとなふとも。自力の心ならん人は。自力の念佛とすへし。千遍萬遍をとなふとも。百日千日よるひるはげみつとむとも。ひとへに願力をたのみ。他力をあふきたらん人の念佛は。聲聲念念しかしなから他力の念佛にてあるへし。されば三心ををこしたる人の念佛は。日日夜夜時時剋剋にとなふれとも。しかしなから願力をあふき。他力をたのみたる心にてとなへゐたれは。かけてもふれても。自力の念佛とはいふへからす。(和語灯録・七箇条の起請文)

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ただ一声二声称えても、自力の心の人は自力の念仏とする。千回一万回称えても、百日千日昼夜を問わず励んでも、ひとえに阿弥陀仏の本願力をたよりとし、他力を仰ぐ人の念仏は、どの念仏も他力の念仏になる。だから、三心をおこしたひとの念仏は、ずっと称えていても、願力を仰ぎ、他力をたのむ心で称えるのならば、自力の念仏とはいってはならない。

法然聖人が、日夜何万遍も念仏をされているのも、自分が助かる為の修行としてではなく、三心を起こされた上での念仏でした。

では、どこが違うのかというと、以下のように言われています。

されはたれもたれも煩惱のこきうすきをかへりみず。罪障のかろきおもきをも沙汰せず。たた口に南無阿彌陀佛ととなへむこゑにつきて。决定往生のおもひをなすへし。その决定の心をやがて深心とはなづくる也。(和語灯録・大胡太郎実秀への御返事)

http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J09_0552

煩悩の多少をかえりみず。罪障の軽重も沙汰せず。ただ口に南無阿弥陀仏と称える声について、決定往生の思いをしなさい。その往生が定まった心を深心といいます。

「こゑにつきて。决定往生のおもひをなすへし」というのは、称えるままが阿弥陀仏の本願を聞いて往生に疑い無いという聞法の行という意味で言われていました。阿弥陀仏から賜る念仏において決定往生の思いが現れてきますので、その点では「②相続する心も阿弥陀仏からいただくので信心獲得したときに三心が備わる」と言えます。

そこから、南無阿弥陀仏を称えるままが南無阿弥陀仏を聞いているということで、親鸞聖人は南無阿弥陀仏を「本願招喚の勅命」と言われました。信心が相続心と言われたのは、南無阿弥陀仏が常に私を呼び続けて下さるところから言われたものと思います。

そういう意味で、①とも②とも言えます。