安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「弥陀をたのむ(おまかせする)ということは、阿弥陀様のお救いに手出しをせずに、ただ阿弥陀様のなされることを見守っているだけという感じでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

弥陀をたのむ(おまかせする)ということは、阿弥陀様のお救いに手出しせずに、ただ阿弥陀様のなされることを見守ってい | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように回答しました。

見守っているというのは違います。
見守るという言葉は、第三者が使う言葉になるので、阿弥陀仏が私でない誰かを助ける事を横で見ているという意味になってしまいます。

これに加えて書きます。
阿弥陀仏がなされることを見守っているとなりますと、これから阿弥陀仏が救おうと働いているということになります。阿弥陀仏と私の間に距離があるように感じられているのではないかと思います。

阿弥陀仏の救いというのは、時間的にも空間的にも私から離れたものではありません。どこかの誰かに向けられているのではなく、私に向けられているものです。


南無阿弥陀仏が、一人一人に順番に救っていかれるようなお働きならば、見守るという言い方もできると思います。しかし、南無阿弥陀仏は一人一人ごとに分かれて下さっています。


以下は、親鸞聖人が唯信鈔文意で「如来尊号甚分明(五会法事讃)」の解説をされているところです。

「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P700)

南無阿弥陀仏(如来尊号)は「よろづの衆生ごとにわかつ」と言われています。私一人の上に南無阿弥陀仏は今働いておられます。そういう意味では、見守るという距離感はありません。


今私を助けるとの働きが、声となって出て下される念仏です。南無阿弥陀仏は、ただ今助けるの仰せですから、その仰せにまかせるということが弥陀をたのむということです。
ただ今助けるの仰せに、救われてください。