安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「他力の念仏を称えようとするのではなく、今称えたのが他力の念仏であったと気付けるように称えた方がよいのでしょうか。」(頂いた質問)

他力の念仏を称えようとするのではなく、今称えたのが他力の念仏であったと気付けるように称えたほうがよいのでしょうか | Peing -質問箱-

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Peing-質問箱-より

上記の質問について、Peingには以下のように書きました。

念仏はすべて、阿弥陀仏が私を助けようとする(利他しようとする)働き(力)によるものです。
そういう意味で親鸞聖人の言われる念仏は「他力念仏」ということになります。「他力念仏」は私がどうにかしたことによって「自力念仏」から「他力念仏」に変わるというものではありません。
もともと私が自分で称えているものではなく、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を救うとのお働きと聞いて下さい。

これに加えて書きます。

他力の念仏とは、自力の念仏との対義語として考えると称え方や称える心がけによって他力になったり自力になったりするように考えてしまいます。もちろんそういう意味もあるのですが、そこにこだわると段々観念的な話になり結論がでなくなってしまいます。

そもそも「他力の念仏」というのは、親鸞聖人の教えから出てくる言葉なので、浄土真宗辞典より引いてみます。

ねんぶつ 念仏
(略)
親鸞は、法然の説く称名念仏が真実信心のそなわった他力の念仏であり、本願力回向の行であるとした。「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(浄土真宗聖典註釈版607)とある。

ここに親鸞聖人の言われる念仏とは、称名念仏のことであり「他力の念仏であり、本願力回向の行である」と書かれています。阿弥陀仏から差し向けられるところのはたらきが他力の念仏ですから、その働きそのものは「私が」称えようと思っても思わなくても変わりません。

また、「真実信心のそなわった他力の念仏」ですから、「他力の念仏を称えようとする」のは「真実信心のそなわった他力の念仏を称えようとする」ということになるので、言葉の上からも難しいことになります。なぜなら、「他力の念仏を称えよう」とすると、「真実信心」も自分で用意しなければならなくなってしまうからです。


ですから、南無阿弥陀仏と称える際には「こういう念仏にしよう」と思った時から「他力の念仏」ではなくなってしまいます。そのように思ってしまうと「自力の称念きらはるる」となります。

私が称えている南無阿弥陀仏は、私の口から出ていますが、阿弥陀仏の本願から出てきて下さったものなので「称えられている名号」という表現を辞書などでも使われます。

例として、浄土真宗辞典より以下を引用します。

だいぎょう 大行
称名はこの名号の活動體であるので、称名を指して大行ともいう。
(略)
称名を大行として顕されているが、称えた働きによって行となるのではなく、称えられている名号に大行としての徳をもち、この名義にかなって称えているから称名もまた大行といわれる徳がある。

私が口を動かし発生している「南無阿弥陀仏」を耳で聞く限りは、間違いなく自分の「声」にしか聞こえませんから、「自分の言葉」としか思えません。しかし、この「南無阿弥陀仏」は私によって称えられているものであってもともと私の「声」でも「言葉」でもありません。


では何かと言えば「弥陀回向の法」であると言われます。阿弥陀仏から私に差し向けられている救いの働きそのものです。南無阿弥陀仏が、六字の文字コードではなく実際に動いて私を助けようと走っているすがたが称名念仏です。

どう称えても南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から回向される私を助ける働きなので、南無阿弥陀仏を私を助ける法だと聞いて下さい。聞いて疑いないなら、他力の念仏です。