さ 2022-11-01 04:37:29
私が称えたり念じたりする南無阿弥陀仏が阿弥陀様そのものと表現される場合、「南無なんとか」でも同様になってしまうように思うことがあります。どう違うのか、ご解説いただきたいです。他の宗教の本尊名との違いがいまひとつと感じたりします。
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/11/19/223648
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」は、六字が名号であるとされました。
それに対して、例えば「南無釈迦牟尼仏」というのは、「釈迦牟尼仏に南無します」という意味の言葉です。
なも 南無
梵語ナマス(namas)の音訳。帰命と意訳する。仏・法・僧の三宝に帰順すること。あるいは敬礼する意で用いられる場合もある。(浄土真宗辞典)
ですから、「南無釈迦牟尼仏」でしたら、「私は釈迦牟尼仏に帰順します」。「南無薬師如来」でしたら、「私は薬師如来に帰順します。敬意をもって礼拝します。」という、自身の信仰、立場の表明の言葉となります。主語は「私は」となります。
「南無釈迦牟尼仏」といった上で、そういう人はお釈迦さまに帰順しているので、お釈迦さまの教え通りの行をするという順番になる言葉です。
それに対して、「南無」も「私からするもの」ではなく「阿弥陀仏から回向されるもの」と親鸞聖人は見られました。
ですから、こちらの「南無」については主語は「阿弥陀仏が」ということになります。
なもあみだぶつ 南無阿弥陀仏
(略)
南無とは衆生の帰命を意味するが、親鸞はそれも阿弥陀仏が成就して衆生に回向するものであるとし、南無阿弥陀仏の六字全体を仏の名号とする。
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(顕浄土真実行文類 - WikiArc
・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P170)
南無阿弥陀仏の「南無」は「本願招喚の勅命」であると親鸞聖人は解説されました。
この「南無」は、阿弥陀仏の本願成就からこのように呼びかけられるので、「招喚(マネク ヨハウ)」するのが阿弥陀仏であるとされました。ですから、この南無はそのまま六字全体にかかるものとなり切り離すことはできません。
親鸞聖人がいわれるところの南無阿弥陀仏は、すべて阿弥陀仏からの回向されるものです。
他宗教との本尊名との違いについては、一々全ては知りませんが、自力回向のものしか知りませんのでそこは異なります。