安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助けたい阿弥陀仏ならばなぜ目の前に現れないのですか」(頂いた質問)

「助けたい阿弥陀仏ならばなぜ目の前に現れないのですか」(頂いた質問)

阿弥陀仏は目に見える相では現れて下さいません。
ではどういう形で現れていらっしゃるのかと言えば、声の形で現れてくださっています。ですから、南無阿弥陀仏と言う念仏がそのまま阿弥陀仏です。

そのことを親鸞聖人は南無阿弥陀仏は本願招喚の勅命であるといわれています。

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり(教行信証行巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P170)

http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実行文類#P--170

本願招喚の勅命とはどういうことかと言えば、阿弥陀仏からの喚び声であり、決して逆らえない喚びかけであると言われています。


しかし、そう聞くと次にそれは阿弥陀仏の呼び声であって阿弥陀仏そのもののお姿とは別のことではないかと思われると思います。しかしそれは違います。
私が称えているところの南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のそのものなのです。


それを安心決定鈔にはこう書かれています。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。(安心決定鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1386)

https://bit.ly/2CXHa6D

実は、私が称える南無阿弥陀仏が私を救ってくださるのです。


そのことを、親鸞聖人は教行信証に以下のご文を引文されています。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P180


阿弥陀仏は、名(南無阿弥陀仏)で私(物)を救って下さいます。

したがって、私を実際に救って下さるのは「名」(南無阿弥陀仏)ということになります。では「名」はどうやって私の前に現れて下さるのかといえば、私が称えているところの南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が私を救って下さる「名」ですから、私の目の前というか口の前に現れて下さっています。

その南無阿弥陀仏を、本願招喚の勅命と聞いて救われて下さい。