猿松さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
猿松 2023-04-26 18:17
『私の口から南無阿弥陀仏と出てくださったのは、すでに救いの働きが私に働いているということです。それを聞き入れたのが、私の上での救いの完成です。』
と教えていただきました。しかし、私の口から南無阿弥陀仏が出てくださっているのは疑いようのない事実ですが、それが私の救いに直接繋がってこないのです。
完璧なお救いの南無阿弥陀仏が今届いていて、それを認識しているにも関わらず、それが私の救いにならないのは、結局私が南無阿弥陀仏のいわれをよくわかってないか、もしくは南無阿弥陀仏を自分でいじくっているからでしょうか?(猿松さんのコメント)
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2023/04/20/041452
お尋ねの内容について、二つあるのでそれぞれについて書きます。
「私が南無阿弥陀仏のいわれをよくわかってない」について
よく分かっていないから救われないということはありません。仮にそうだとすれば、「よく分かる為に学べば救われる」ということになってしまいます。
猿松さんは、いろいろと勉強もされて「南無阿弥陀仏のいわれ」についてはよく聞いておられると思います。ただ、聞いた南無阿弥陀仏のいわれを、いろいろと考えているのだと思います。
「南無阿弥陀仏を自分でいじくっているからでしょうか」について
そのように、聞いた「南無阿弥陀仏のいわれ」をいろいろと考えているのが、「南無阿弥陀仏を自分でいじくっている」ということになります。
言い方を変えると、「聞いた南無阿弥陀仏のいわれ」が「私の救いにならない」ことからあれこれ検討をしている状態です。
南無阿弥陀仏が、私を救う働きであり、今の私に「ただ今救う」と呼びかけられているのだと聞いても、それが「私の救いにならない」というのは、聞いた以上に「何か」がないと「救い」にならないという考えがあるのだと思います。もちろん「ただ知っている」というのは救いになりませんが、「聞いて疑い無い」以上の何かを信心とはいいません。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版`678)
南無阿弥陀仏のいわれを聞いても「でも自分は救われてないし」と思って、いろいろと考えてしまいます。しかし、「でも自分は救われてないし」というのは、決して当たり前のことではありません。聞いたその時に「でも……」と付け加えるのが疑いです。
そこは捨てて、南無阿弥陀仏を私を救う法だと聞いて疑い無いのが聞いたということです。
ただ今助ける南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。