こちらに対して質問箱に私が書いたのは以下のものです。
そちらの本は読んだことはありません。
書いてある内容自体は、おかしなことは書かれていません。
洗心書房さんから出ている「他力信仰の真髄」と言う本は持ってらっしゃるでしょうか? | Peing -質問箱-
質問箱にいただいた質問ですが、簡単にしか書かなかったのでこちらに追加で書きます。
「他力信仰の真髄」という本は、私は読んだことがありませんが、引用された部分について書いていきます。
書いてあることそのものが間違いではありませんが、こういう表現でなければならないというものでもないというのが結論です。
ここでは
阿弥陀仏と救済と信仰を別々に考えて
安心できなかったと書かれています。
それが
阿弥陀仏のましますことがそのまま私たちの救いであることがわかり、その救いがそのまま私たちの信仰であることが了解されたのであります「南無阿弥陀 二つはあらじ 信と行 また往生と正覚の体」
と変わったとあります。
阿弥陀仏がましますことと、それが私の救われること、しれが信心であると心得たとのことでした。
同様の表現は、御文章に蓮如上人は書かれています。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通 浄土真宗聖典注釈版P1179)
http://urx.space/hvKJ
法蔵菩薩の本願が成就して、すでに仏となられたすがたがいまの南無阿弥陀仏であり、これが私の往生が定まった証拠だといわれています。そして、他力の信心を獲たといってもこの南無阿弥陀仏の六字のこころであるといわれています。
この「いまの南無阿弥陀仏」にすべて「阿弥陀仏の正覚」「私の往生」「信心」が現れていると書かれています。
質問された方は
私は仏願の生起本末や阿弥陀仏の存在には疑いがないのですが、「こんな心で救われるんだろうか」と思うことが多々あります。阿弥陀仏=救い=信心 ならば自分は安心するのでしょうが
と書かれています。
仏願の生起本末からいえば、御文章に書かれている通りで法蔵菩薩が「衆生を仏にすることができなければ私も仏にならない」という願を建てられてより、仏にすでになられたのが今の南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏がいま働いてくださっているということが、私を浄土に往生させ仏にするという働きそのものです。
それを聞いて疑いないことを信心といいますが、それ以上に「こんなことが分かりました」「こんな心になりました」というのは人によっていろいろとあります。
一例として「南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を助けるの呼び声だということに疑いない」というのがあります。
これについて「私は呼び声が聞こえたことはないのですが」という方もおられます。
そういう方は南無阿弥陀仏以外になにか「別の呼び声」を想定しているとそのように思います。私もそう思っていました。しかし、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というより外には信心というものはありません。「呼び声」というのも、現に南無阿弥陀仏が私にむかって働き続けておられることの表現です。「天啓のように特別な音声がある日聞こえる」ことを言おうとされたものではありません。
また、この「呼び声」という言い方では質問に書かれた本と全く同じことを表現できません。
質問で「仏願の生起本末に疑いない」とあるのが変わらなければ、それが信心ということになります。
「阿弥陀仏=救い=信心」ということに間違いはありませんが、それが「そうだ」と分かるのにも、そのことを問題意識として抱えてきた人には、「疑い晴れた」ことは「仏願の生起本末に疑心あることない」とほぼ同じ意味になるのでこの本にはそう書かれていると思います。
ただ、こういう「信と行」「往生と正覚」という言葉を使ってあれこれ考える人ばかりではありません。「仏願の生起本末に疑いない」といってもこれらのことはいろいろと聴聞されていくうちに「そういうことか」と分かってくる内容です。
救われたら直ちに、これらの教学的なことが理解できるということではありません。よくよく聞けばわかるようになります。ただ今の南無阿弥陀仏に疑いないのが大事なので、それ以外のことは今後聞いていかれたらいろいろと分かってくることはあります。