安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏もただ称えられればいい」と、蓮如上人の「ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かる様に皆人の思えり。それは覚束なきことなり。」との差はどのように考えればよいのでしょうか?(頂いた質問)

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先生のおっしゃる「念仏もただ称えられればいい」と、蓮如上人の「ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かる様に皆人 | Peing -質問箱-
Peing質問箱に頂いた質問について、加えて書きます。

質問に頂いた御文章は、以下のものです。

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。(御文章3帖目2通 浄土真宗聖典註釈版P1137)

こういう念仏を無信単称ともいいます。信心が無くとも称えるだけでよいというものです。そのように信心がなくともただ称えていれば、その結果として浄土に往生させて頂けるのだというものです。

しかし、いくら称えていても信心が無ければ浄土往生は叶いません。
七里恒順和上の歌にもこういうものがあります。

念仏は どれほど称え 感じても 信がなければ たすかりはせぬ

そこで、いわゆる無信単称と「念仏もただ称えられればいい」の違いについて書きます。
これについては、前回の記事にも書きました。
「(南無阿弥陀仏と)称えている最中に『これはつれてゆくぞと仰っているんだなあ』と考えなければならないのですか、私は特に何も考えずに称えていますが(頂いた質問) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

こちらでは、「あれこれ考えるよりもただ念仏を称える」ことについて書きました。
それは、念仏そのものが私を助ける働きがあるので、いろいろと念仏の意味を考えながらでないと救われないということはありませんという意味で書きました。


そうなると、質問されたような疑問も起きると思います。
救いとは、「私が念仏称えた」ことに対する引き換えとして与えられるものではないからです。つまり、念仏そのものに救う力があるので、それをその通りと聞いて疑い無いことをいいます。本願に疑いなければ、称えるままが念仏であり信心となります。念仏と信心は別々のものではないので、念仏を称えたら信心が頂けるというものではありません。

参照 御文章3帖目2通 全文

 それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年八月五日これを書く。]