くまもんKさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
脱会ブログのコメントですが、コメント欄に書こうと文章を書いているうちに長くなったので、こちらにエントリーします。
くまもんK
南無阿弥陀仏を聞くとはどういうことですか?
誰もが聞きたいと思いますが、どのようにしたら聞けるのですか。
2013-07-02 14:50
御文章にこうあります。
それ、解脱の耳をすまして渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、信心歓喜のおもひをなすべし。
それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。
さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。
くまもんKさんの質問に対する答えを蓮如上人が仰っていますね。
ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて
この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたる
このように聞いてください。
2013-07-02 14:50
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2013/06/30/070019#comment-11696248318755242749
南無阿弥陀仏を聞くについてですが、「南無阿弥陀仏」と「聞く」についてそれぞれ書いていきます。
南無阿弥陀仏とは?
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が私を助けるために本願を建てられ、その本願が成就してできあがったものです。この南無阿弥陀仏には、私を浄土に往生させる働きがすべて収まって言います。また南無阿弥陀仏は、私が称えられるように声の形となって阿弥陀仏から私へとさし向けられています。
ですから、私の口から南無阿弥陀仏と称えている「南無阿弥陀仏」は、耳で聞く分には「自分の音声」に聞こえますが、「阿弥陀仏が成就された私を助けるお働きそのもの」です。そのため、親鸞聖人は南無阿弥陀仏を「大行」と仰っています。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P141)
http://goo.gl/iH3WG
なぜ南無阿弥陀仏が「大行」なのかといえば、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」(あらゆる善根功徳が収まっており、あらゆる功徳の本としての徳がそなわっている)だからです。
阿弥陀仏の本願とその行が全て収まっている南無阿弥陀仏ですから、口に私が称えている形で現れていますが、その実体は私を助ける阿弥陀仏のお働きそのものということになります。
「聞く」とは?
何を聞くかといえば「南無阿弥陀仏」を聞くのですが、耳に音声として認識されたことをさして「聞く」と言われてはいません。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P677)
http://goo.gl/EWwFL
「本願の名号を聞く」とは「南無阿弥陀仏を聞く」ことです。それは「本願をききて疑う心なき」ことだと言われています。
本願とは、阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏が私を助けるために願を建てられ、浄土を建立されそこに私を生まれさせるために現在南無阿弥陀仏となって私に働いてくださっているということです。
私が口に称える南無阿弥陀仏が、私を助ける阿弥陀仏のお働きであると聞いて疑い無いことを聞いたと言います。それをまた信心とも言われます。
どのようにしたら聞けるのか?
最後に、どのようにしたら聞けるのかとコメントにあったので書きます。「こうしたら聞けます」という手段は特にありません。「こうしたら」という手段が必要になると、人によってはその「こうしらた」ができない人は聞けない南無阿弥陀仏になってしまうからです。
「これだけ勉強したら」と言えば、御文章によくでてくる一文不知の人は聞けないことになります。「これだけ善いことができたら」といえば、それができない人は聞けないことになります。「これだけ頑張れたら」と言えば、そこまで頑張れない人は聞けないことになります。
聞くといっても特別な「声無き声」のようなものを聞くのではありません。今までも今も称えられる南無阿弥陀仏を聞く以外に何もありません。その南無阿弥陀仏が私を助ける阿弥陀仏のお働きと聞いて疑い無いことを聞いたといいます。「聞いたからどうなる」とか「こうやって聞こう」というのは全て自力の計らいといわれるもので、それらは全て捨てものです。聞こうと頑張って聞くのでもなく、頑張ったらダメだと力を抜いて聞こうとするのでもありません。南無阿弥陀仏は、私を助ける働きであり、私に向かってただちに来れとよび続ける阿弥陀仏の喚び声と聞くことです。
そして聞いた通りに思いなさい、あれこれ計らってはならないと言われたのが、
聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)
http://goo.gl/Vem2Q
のお言葉です。