安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が仏教を求めているのは、一種の強迫観念(ぼんやりとした不安?)であって、今のうちにやっておかないと何か悪いことがおきるのでは?……といった感じです。ですからとても純粋に後生の一大事に向かっているとは思えませんが、これでもよいのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

私が仏教を求めているのは、一種の強迫観念(ぼんやりとした不安?)であって、今のうちにやっておかないと何か悪いこと | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように回答しました。

きっかけはなんでもいいと思います。
今のままではよろしくないと言う思いも、後生の一大事と繋がっています。「純粋」かどうかは気にしなくても良いです。

これに加えて書きます。
仏教を聞くきっかけとなる縁は人によっていろいろとあります。
質問された方のように「ぼんやりとした不安?」というのでもあると思います。私も、過去親鸞会に勧誘された時は、自分自身が何となく考えていた「何となく大学にまで来たけれどもこのままでいいのだろうか」という漠然とした不安感から話を聞こうと思いました。

確かに出家して悟りを求めるような集団にいるならば、「自分は出家をしてまで求めようと思っていないのだけれどもこれでよいのだろうか?」と思うこともあると思います。しかし、阿弥陀仏の本願はそのような「純粋に後生の一大事に向かっているものだけ救う」というものではありません。甲子園の常連校の監督のように「本気で甲子園に出たい気持ちのない者は入るな」とは言いません。

私の日常というのは日々の生活にいろいろ振り回されているのが現状です。出家者のような生活はしていません。それでも生きる事だけ良い事で、死ぬ事はつまらない事だという考え方に納得できない人が大半ではないかと思います。本当はもっと求めるべきものが有るのではないかと思いながら、それを知る智慧を持ち合わせていないのが私というものです。

そこに、「純粋」かどうかは問題ではありません。阿弥陀仏は、「純粋かどうか」といわれても純粋になれないような私を救うために本願を建てられました。

ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。(御文章 (一帖) - WikiArc三通・浄土真宗聖典註釈版P1086)

ここで「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらもの」というのは、自分自身が純粋かどうかを考えることも入ります。自分は救われるべきものなのだろうかと考えることは必要ありません。
その私、この私を助ける阿弥陀仏の本願が現に働いてくださることを聞き、阿弥陀仏のただ今助けるの仰せを聞いて疑い無い人は必ず「御たすけにあづかるものなり」です。


私を助ける為に阿弥陀仏の本願は建てられました。私の動機や気持ちは、気にしなくても問題ありません。