安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「実際、阿弥陀仏は、私の事なんて認識していないのではないか、という気持ちがぬぐえません。特に獲信者と自分を比べると、自分は阿弥陀仏のお目当てで無いような気持ちが強くなってしまいます。どうしたら良いでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

阿弥陀仏の本願が自分一人の為だ、と聞くことが出来ません。私も十方衆生の一人であり、阿弥陀部の本願の対象者である | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

自分は阿弥陀仏のお目当てで無いような気がする理由が、自分の資質や性格、考え方によるものであるのならば、それは勘違いです。
阿弥陀仏の本願は、一人一人に建てられたものです。一人一人に漏れなく建てられた結果が十方衆生となっています。私を抜いて建てた本願であったならば、法蔵菩薩は阿弥陀仏となってはおられません。
大勢の中の一人という救いではなく、私一人を助ける阿弥陀仏が救ってくださるのだと聞いて見てください。

これに加えて書きます。
歎異抄に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とあります。そのように聞く事が出来ないと言うことですが、質問されている文面からすると、阿弥陀仏の本願は、多くの中から一人ずつ助けていかれるようなものだと思われているのではないかと思いました。


私もそのように考えていた事があります。
例えば、法座会場に何人も人がいて、「あの人は獲信した人だ」という人がいると、「自分と何が違うのだろうか」「というより、何かが違うからあの人は信心をすでに獲られたのだろう」と考えていました。

しかし、その考えは就職活動で、内定をとった人にむけるまだとれない人の考え方です。阿弥陀仏の本願にそれをあてはめるのは間違いです。

就職活動と阿弥陀仏の本願の違い

集団面接

就職活動は、会社の採用担当者が多くの希望者から書類審査、一次審査と振り分けて最終面接でその人を採用するかどうかを決めます。どこの会社も「希望者全員採用」ということはなく、採用担当者の希望の叶った人の中から、採用枠の人数で内定がでます。

それに対して、阿弥陀仏の本願はそのように「救う相手」を選抜することはありません。また、「助けたい人を助ける」ということもありません。もしそうなら、就職活動のように阿弥陀仏に対して「自分がなぜ浄土に往生したいか」という志望動機から、「浄土に往生するために今までどんな努力をしてきたか」まで自己PRしなければなりません。

しかし、そのようなことは阿弥陀仏はされません。なぜなら、十方衆生を救う為に阿弥陀仏は、一人一人の上に分かれて下さっているからです。

この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P700)

「この仏の御な」というのは南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏は「よろづの衆生ごとにとわかつ」と言われています。「十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふ」為に、一人一人に南無阿弥陀仏は分かれて下さっています。

いわば、「私の担当」としての南無阿弥陀仏がおられるわけです。その点では「採用担当」とは違います。

質問された方が、「あの人と自分を比べてどうなのか」と考える必要はありません。「あの人」は「あの人担当の南無阿弥陀仏」を聞いたと思ってください。私は、「私担当の南無阿弥陀仏」を聞いたらいいです。
私一人を担当されている南無阿弥陀仏という意味では、それは「ひとえに私一人がため」です。「私担当の南無阿弥陀仏」は、私以外を視野に入れてはおられません。

私にむかって、ただ今助けるというのが、南無阿弥陀仏ですから、そのように聞いて下さい。多くの人の中から一人にだけ呼びかけるものではありません。