ただ、自力無功、他力回向、まかせる、これ一つと分かるのですが
(略)
御文章(2帖目15通)に「されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。」
とありました。
まかせる まかせる まかせる まかせようとする心も自力、、、、ずーっとこのままでは困ります。
回答します。
ずっとこのまま続くのではありません。必ず救われる事があります。
阿弥陀仏は、私たちを決して捨てられはしません。
ご和讃にも、摂取してすてないから阿弥陀というのだといわれています。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82)
まかせるというのは、「『まかせる』ということをする」のではありません。
それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。(御文章2帖目14通)
私たち凡夫が、浄土へ参るための用意をされたのが、他力の信心です。
浄土往生の用意をしていただいたのです。費用は全部持つと阿弥陀仏が言われているのです。
日常生活でも「費用を出してもらった」といったら、私が何か「した」のではありません。ただ「出してもらった」のです。加えて、用意をされたというのは、旅行で言えば、往復の旅費、宿泊代だけでなく、道中の食事代も全部出すと言うことです。
往生浄土に関しては、私が出すものは何一つ無いと言うことです。
かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。(御文章2帖目15通)
そのことを、「さらになんのやうもいらず」と言われているのです。
阿弥陀仏に浄土往きの費用を出していただくということです。阿弥陀仏も、おさめ、たすけ、救うと言われているのです。
必ず救われると言うことがあります。つらいときは阿弥陀仏が苦しんでおられるのです。五劫思惟も、兆載永劫のご修行も、私一人を助けるためのものなのです。
大千世界に多くの仏や、人有れど、そこまでして下さるのは阿弥陀仏だけです。
これも自力、あれも自力と思って行き詰まったら、それは捨てものだということです。自力を捨てて弥陀をたのむ一つで救われます。