今年からお聴聞などを本格的にさせて頂きましたが、さいきん私生活で少し問題が起こり(お軽同行と同じような状況でござ | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように答えました。
愛と憎しみの波は消し去ろうとして消せるものではありません。それらを消すのではなく、それを越えた浄土に往生させようというのが阿弥陀仏の本願です。
必ず阿弥陀仏は助けるという仏ですから、煩悩が起きるのは気にせずお聴聞して下さい。
これに加えて書きます。
愛憎の煩悩は救われても変わらない
愛欲と怒り憎しみは、煩悩によりおこるものなので阿弥陀仏に救われてもそれ自体は変わる事はありません。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P693)
親鸞聖人が一念多念証文に書かれています。「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」というのが愛欲、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心です。
「水火二河のたとへにあらはれたり」あるのは、善導大師の書かれた二河白道の譬えのことです。
東の岸から、西の岸へ渡ろうとする旅人の前に、右手に水の河(欲の心)、左手に火の河(怒りの心)が南北に流れています。その中間に、四五寸という細い白道があります。とても西の岸へ渡って行けないような状況ですが、西の岸から喚ばれる方の声と、東の岸から勧める方の声を聞いて、その声に従って白道を進んで西の岸に到達するというたとえ話です。白道は他力信心、西の岸からの喚び声は阿弥陀仏の喚び声であり、東の岸の人の勧めは、お釈迦さまの教えを譬えられています。
ここで、阿弥陀仏の喚び声を聞いて白道を進んで西の岸に到達するというのは、この命が終わって浄土に往生することを言われています。しかし、西の岸に到達するまで水の河(欲)、火の河(怒り・腹立ち)は全く変わりなく続いていきます。そのことを、先の一念多念証文で言われています。
阿弥陀仏に救われても、救われていなくても二河白道の譬えで譬えられるような煩悩の水の河や火の河は常に波立っています。しかし、お釈迦さまは、そのまま進めと勧められますし、阿弥陀仏は「ただちに来たれ」と呼び続けておられます。
「わがこころのわろき」を止めよという教えではありません
それでも、お尋ねの文面からすると、いろいろと思う心が邪魔をするのに難儀をされているのはよく分かります。
ただ、それに対峙するのではないと蓮如上人は御文章でこのように言われています。
まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。(御文章 (一帖) - WikiArc三通・浄土真宗聖典註釈版P1086)
浄土真宗の信心は、「わがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず」と言われています。お尋ねの文章で言う「どうにもならない心と燃えたぎる愛憎の気持ち」が起きるのを止めなさいというものではありません。
なぜかといえば、そんなどうにもならない心をもったものを救う為に誓いを建てられたのが阿弥陀仏の本願だからです。
続いて、御文章は以下のように続いて書かれています。
ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。(同)
今のあなたを助けようと誓いを建てられたのが阿弥陀如来の本願です。その阿弥陀仏の「ただちに来たれ」の仰せを聞いて疑い無い信心がまことであれば、必ず救われると書かれています。
ありがたい心にするのではなく、ただ今助けるのが南無阿弥陀仏
私の心は、どこにもっていくことも出来ません。ただ、阿弥陀仏の本願は、その心を有り難い心にするというものではなく、ただ今助けると喚び続けられています。それが南無阿弥陀仏です。
私の心はどうにもならなくても、常に摂めとって捨てられない、常にともに私の上に働いて下さるのが南無阿弥陀仏です。
今の私を必ず救う仏がおられるということを常に忘れずお聴聞してください。ただ今助ける本願に、ただ今救われてください。