安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「後生の一大事についてです。信心を獲たら実感が持てるのでしょうか。毛の先程の疑いであってもダメと聴いております。私は完全に信じきれません。もしかしたらおとぎ話?とか。しかし必ず救うと仰ってくださる阿弥陀さまの無碍の光明は、私の疑いなど障害にならないと思います。既に阿弥陀さまの信心に包まれている事がわからないだけだと思うのですけど如何でしょうか。」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

おはようございます。 後生の一大事についてです。 信心を獲たら、実感が持てるのでしょうか。 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように回答しました。

信心を獲るという言い方を使えば、獲たか獲ないかよく分からないということはありません。
信心とは、何かモノを受け取るのとは違うので、その意味で「モノを受け取ったような実感」を想像されるかも知れませんがそういうものはありません。
信心に包まれるという言い方はしませんが、助けるお働きには包まれています。それを「そんなことはないだろう」と遠くに押しやっている事を疑いといいます。

これに加えて書きます。

後生の一大事について実感が持てるかということですが、結論からいうと私が日常使う実感と同じようなものはありません。

なぜなら、私が日常「実感する」という言葉を使う時は、現実の物事から得る感じのことをいうからです。何か具体的な「モノ」見た時、実際の「人」に接した時「実感」します。ですから、「後生」は私にとって生きている間は「現実の物事」ではないので「実感」することはありません。日常でも、「明日晴れる事を実感する」と言わないのと同じことです。

しかし、浄土往生については、信心定まるとき往生が定まりますのでそれにあれこれと思う事はありません。その浄土往生するということについて、親鸞聖人は「歓喜」という言葉で説明されています。

「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。(一念多念証文 - WikiArc10・P684)

「うべきことをえてんず」というのは、将来実現することがきっと得るであろうという意味です。浄土往生するのは、生きている私にはまだ実現してないことですが、将来そうなることを先立ってよろこぶ心であると言われています。

喜んでいるというは、現実ですが、それは「往生浄土を実感して」喜んでいることではありません。

私には完全に信じきれません。もしかしらたら、おとぎ話?とか。(Peing-質問箱-より)

とのことですが、そういうものではありません。

浄土についてはよく分からないように、私はいつ死ぬかということもよく分かりません。ただ、いつまでも生きてはいられないのは現実です。
また、信心が定まらないならば浄土往生ということはありません。迷いを重ねるという後生の一大事は、命が尽きれば実感できるでしょう。

必ず救うと仰ってくださる阿弥陀さまの無碍の光明は、私の疑いなど障害にならないと思います。(同)

あれこれ計らうことは必要ありませんが、この言い方ですと「疑い晴れなくても助ける」と言うことになります。言い換えると、「南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い」状態にならなくても、信心が成り立つと言っているようなものなのでそれは違います。

「私の疑いなど」という位の疑いは、捨ててただ今助けるという南無阿弥陀仏を聞いてください。

既に阿弥陀さまの信心に包まれている事が分からないだけだと思うのですが如何でしょうか。(同)

阿弥陀さまの光明に包まれていることが分からないということはありますが、信心とは阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いないことをいいますので、疑ったまま信心に包まれているという言い方にはなりません。


何も分からない私の為に南無阿弥陀仏となって下さいました。私が南無阿弥陀仏と申す念仏が、私を助けるとのお働きそのものです。ただ今助けるとの仰せと聞いて疑いないのが信心ですから、ただ今聞いて救われて下さい。