安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

必ず救うから待っていなさいという本願ではありません(頂いた質問)

他力回向の法であり、私の方では何もすることがないと聞くと、待つしかないのではないかと思ってしまいますが、いかがでしょうか?(頂いた質問)

質問された方の、「待つしかない」というのは、ご飯を炊くならば、お釜に米と水を入れて炊飯スイッチをおして後は炊きあがるのを待つだけと言った感じでしょうか?
ご飯にたとえるなら、あとは頂くだけです。待つだけというのは、まだご飯が炊けていないのです。
そのように、他力回向の法と聞いていても、待つだけと思う心は、まだ本願が働いておられない、助ける準備はできているけどまだ時期が来ていないという考えではないかと思います。
阿弥陀仏の本願は、すでに成就し南無阿弥陀仏となって私に働いて下さっています。

この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。(御文章3帖目1通・摂取と光明・註釈版聖典P1134

三世の諸仏に捨てられた我ら凡夫を、我一人救おうという大願を起こされて、五劫思惟、兆載永劫の修行をされて、どんな罪深い者でも救うという本願を成就されたお姿を、阿弥陀仏といいます。
助けるから、待っていなさいという本願ならば、まだ助ける用意ができていないのです。炊飯スイッチは押したから後は待っていなさいということではありません。
すでに私を助ける用意はできているのですから、もう待つ必要はありません。ただ今救われますから、ただ今救われて下さい。