安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「特別、罪悪に苦しまなくとも助けてくださる本願ということであるならば、私の今の苦しみはただの被害妄想であるということですか?」(新垣真さんのコメント、Kさんのコメントより)

新垣 真さん、Kさんからコメントをいただきましたありがとうございました。

「水火の難に畏れる」ということを会長さんはどんな意図で解説されているのでしょう。思うに、「畏れる」とは象徴的な言葉であり、少し具体性をもたせれば、「煩悩が問題になる」といったところではないでしょうか。確かに阿弥陀は罪悪で苦しんでいないもの はまだダメだとは仰っていませんが、求道の過程で罪悪で苦しむことは不可避的ではないでしょうか。私は阿弥陀仏に心を集中させようとするほどに噴き出る雑念、妄念に迷惑していますが、特別、罪悪に苦しまなくとも助けてくださる本願ということであるならば、私の今の苦しみはただの被害妄想であるということですか?(新垣 真さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111229/1325103602#c1325126373

新垣さんが、阿弥陀仏に心を集中させようとしていろいろな雑念が出てくることに迷惑されているとのことですが、苦しんでいる人も当然阿弥陀仏の救いの相手です。被害妄想というのは、何を意味されてのことかわかりませんが、阿弥陀仏は何も危害をあたえようとされているのでもありません。

浄土真宗の教えは、煩悩罪悪を問題にするのではなく、信疑を問題にします。信疑とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、疑心が有るか無いかが問題です。

コメントされたように、阿弥陀仏の本願を聞いて浮かぶ色々な心は、煩悩を問題にして「こんな罪の深いものは助けていただけないのではないか」と思うものもあると思います。しかし、その時に、「こんな心は煩悩があるから起きるのだ」と煩悩を止めようとすることに全く意味はありません。なぜなら煩悩罪悪をゼロにすることは不可能だからです。

御一代記聞書には、以下のように言われています。

(39)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書39・浄土真宗聖典(註釈版)P1245)

http://2fa.c7.sl.pt

もし罪が問題になるとしても、罪を消して助けてくださるのか、罪を消さずに助けてくださるのか、それは阿弥陀如来のおはからいであって、私が悩むことではありません。
煩悩に苦しんだ衆生を助ける本願ではありません。「たのむ衆生を本とたすけたまふことなり」と言われています。ここで「たのむ衆生」とは、阿弥陀仏の仰せをたのむ衆生ということで、本願を聞いて疑いない人のことです。

新垣さんの心に出てくるものが、被害妄想なのかそうではないのかを問題にするのではなく、本願を聞いて疑いないか、有るかが大事です。本願を聞くか聞かないかが大事です。

本願を聞いて、ただ今救われてください。

もう一つのKさんのコメントについては、別エントリーでまた書きます。

18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、これもどんな人も助けるということであり罪を問題にせよという意味ではないだろうなと思います。このことについてご解説いただけると有難いです。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111229/1325103602#c1325161051

先立って、簡単に説明を書きます。
「唯除五逆誹謗正法」とは、五逆罪のものと正法を誹謗するものは除くとの本願です。これは、五逆罪謗法罪を未だ造ったことがない人に、それらの二つの罪は恐ろしい罪だから「唯除」と教えて罪を作らないように戒められているお言葉です。
また、すでに五逆罪謗法罪を造った人には、その罪の重いことを知らせて、廻心懺悔させて救うということをあらわされて、どんな罪深いものも救うというお慈悲から言われているお言葉です。
詳しくは、また書きますのでよろしくお願いします。