安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「罪悪深重の者と心から思えないせいか、この私のための本願であったと聞くことができません。何かご助言あれば教えて頂きたいです。」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

罪悪深重の者と心から思えないせいか、この私のための本願であったと聞くことができません。何かご助言があれば教えてい | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

罪悪深重と思えないとのことですが、自力でなんとかなれそうでしょうか?阿弥陀仏の本願は、自力で生死を離れることができないものを憐れんで建てられたものです。

これに加えて書きます。

質問されている方は、書かれているのは、歎異抄にあるお言葉を通して言われているのだと思います。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 (歎異抄 - WikiArc後序・浄土真宗聖典註釈版P853)

親鸞聖人のお言葉として「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と書かれています。
この部分について、歎異抄の作者は、善導大師の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫(略)」と少しも違わないことを言われたのだと書いています。


ここはいわゆる機の深信について書かれたものと言われています。阿弥陀仏の本願を聞いてみると、自分の力ではとても生死を出て離れることが出来ない身であると知らされたということです。
ただここでは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」の上で「それほどの業をもちける身にてありける」と言われています。「それほどの業をもちける身にてありける」と思えたから、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」となったのではありません。

その本願を聞かずに、この歎異抄にかかれているようなことを考えと、善悪のことに囚われてしまうと、続けて書かれています。

まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。(同)

阿弥陀仏がどうして、どのように私を救うために本願を建てて下さり、ただ今助けようと働いて下さっているのかを問題にせずに、「よしあしといふことのみ申しあへり」とあります。

善し悪しを問題にしても、善し悪しは分からない

自分が「罪悪深重の者と心から思えない」とのことですが、自分で自分を見つめても「その時の」罪悪を見る事はあっても突き詰めて考える事は出来ません。なぜなら「自分の罪悪」を判断しているのもまた「自分」だからです。仏様が見られたような自分というものを、自分で見る事は出来ません。

それは、人間同士でも私が見る私と、他人が見る私というものが一緒でないのと同じ事です。他人から「貴方はこういう人だ」と面と向かって言われても、「そんなことはない」と思うのが大半ではないでしょうか。よくても「合っているところもあるけれど」という程度です。たまに「なんでそんなに分かるんですか?」ということが有れば、それは「私が考えている私と一致している」に過ぎません。

「私」というものを通してみる「私」は、仏様が見られた私とは違います。その意味では、「私」を外さないと仏様がみられた私を知る事は出来ません。

もし「罪悪深重の者と心から思える」ことが救いの条件とするならば、「自分」を通して思える事はありません。

阿弥陀仏の本願を聞いてください。そんな善し悪しが分からなくても善し悪しに拘り続け、自分の力ではどうにもならないものを救う為に阿弥陀仏の本願は建てられました。南無阿弥陀仏は、その本願がそのまま声となって私によびかけられています。
自分の心を見つめることはいったん横に置いて、ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いてただ今救われてください。