安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「そのまま」救う阿弥陀仏は、私を否定されない(前日の追記)

「そのまま救う」は、私の力を必要とせずに南無阿弥陀仏一つで救うことだと、前回のエントリーで書きました。

前回の追記として、別の角度からエントリーを書きます。
「そのまま」とは、今の私をそのまま救って下さるということです。逆に言えば、「今のお前はダメだ」「今のお前を救うことは出来ない」と、私を否定されないのです。

いろいろな方と話をしていると、阿弥陀仏の救いについて、自分が救われることについて否定的な発言をよく聞くことがあります。
いくつか例をだします。

  • 「こんな求道姿勢では‥」
  • 「私は宿善が薄いから‥」
  • 「教学も私はよく分かっていないので‥」
  • 「無常も罪悪もあまり感じたことがないので‥」
  • 「自分はそれほど活動もしてこなかったから‥」
  • 「後生の一大事という荷物を背負って泣き泣き求めたこともないので…」

→「だからまだ助からないと思います。」

上記のようなことは、阿弥陀仏は一言も言われていません。阿弥陀仏が言われないことを、自分の計らいで作り上げているだけです。

しかし、上記のような考えは第三者から教え込まれた結果である部分もあります。私の場合は、富山県の親鸞会という団体にいたころに、上記のような救いに関する否定表現をよく聞かされました。何度もくり返して否定的なことを言い続けられると、「自分はすぐに救われる筈がない」と思い込むようになっていました。

しかし「お前はまだ救われない」は、人が言ったことであって阿弥陀仏が言われたことではありません。阿弥陀仏が仰らないことを、続けて聞かされているからそのように思ってしまうのです。阿弥陀仏は私を否定されません。

(36)
無明長夜の灯炬*1なり
 智眼*2くらしとかなしむな
 生死大海の船筏*3なり
 罪障おもしとなげかざれ(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P606

阿弥陀仏の本願は、無明の長夜を照らして下さる大きなともしびだから、智慧が暗いことを悲しむなと言われています。
また、阿弥陀仏の本願は生死の大海を渡して下さる大きな船であるから罪や障りが重いからと言って歎く必要はありません。助からないのではないかと、自己否定をする必要はないと言われています。

「智眼くらし」と悲しむのも、「罪障おもし」と歎くのも、心は「こんな私は救われない」という自己否定の言葉です。
それに対して、阿弥陀仏は、そんな心配は全くいらないと呼びかけられています。「否定しなくてよい、そのまま救う」と肯定されます。救いに関してはあなたは全く問題のない人なのだと、私を全て肯定しておられるのです。

阿弥陀仏の本願の信楽は「無疑心」ですが、これは阿弥陀仏が私を救うことに全く疑いをもたれないということです。「だめなんじゃないか」とか「まだ時間が必要だ」という疑いや否定は、阿弥陀仏の心には全くありません。

そのまま救うように本願力は働いておられます。それを「そのままでは無いだろう」と自分の方で否定するのが自力の計らいです。
ただ今そのまま救う本願を、疑い無く聞いてください。そのまま救われます。

*1:【左訓】「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ」

*2:智慧の眼。肉眼に対する。

*3:【左訓】「弥陀の願をふね・いかだにたとへたるなり」(異本)・