質問箱には以下のように書きました。
阿弥陀仏の本願が真実である事は、真実そのものによってしか真実とは言えません。
真実は元々目に見えるようなものではありませんが、それが形となって顕れて下さったのが南無阿弥陀仏です。ですから、南無阿弥陀仏が真実であるということによってしか、阿弥陀仏の本願が真実であるということは出来ません。
阿弥陀仏の本願が間違いない事だという証拠を、「お釈迦さまが正しいから」以外から書くとこのような書き方になります。
これに加えて書きます。
「弥陀の本願は釈迦が説いたのだから間違いない」
という言い方はもちろんあります。
お尋ねにあるように、「現代人はそもそも釈迦の言っていることがなぜ真実だと言えるのか」という方も多くおられます。
そういう人には「お釈迦さまの言っている事は間違いない」と思って頂くのが一番早いと思います。
お釈迦さまが、仏のさとりを開かれた最初期に説かれたのが、四諦と言われています。
したい 四諦
(略)四つの真理、四つの聖なる真理のことで、釈尊の最初の説法(初転法輪)の内容とされ、仏教の根本教理の一つに数えられる。
- 苦諦(人生は苦であるという真理)
- 集諦*1(苦を招き集める原因は渇愛であるという真理)
- 滅諦(渇愛を滅尽することによって、苦の無い涅槃寂静の境地が実現するという真理)
- 道諦(涅槃寂静の境地に至るためには、八正道を実践すべきであるという真理)
の四。
また四諦のうち、苦諦と集諦は迷いの世界の結果と原因、滅諦と道諦は悟りの世界の結果と原因を示したものである。(浄土真宗辞典)
この四諦は、お釈迦さまの最初の説法ですから、その当時の人からしても「お釈迦さまが説かれたのだから間違いない」という前提で聞いていません。ですから、誰が聞いても分かるように説かれています。
得に最初の「苦諦(人生は苦である)」については、現代人でも納得するのではないでしょうか。
説かれている内容のどこかに、「確かにそうだ」と思えるところがあれば、お釈迦さまの説かれた事に対する信用が生まれます。
「お釈迦さまの言っていることがなぜ真実だと言えるのか」という人には、そのような話を聞いて頂いたらよいと思います。
それは、真宗のお聖教の言葉でも別に構いません。御文章の「明日には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」と聞いて、その通りだなと思う方もおられると思います。
阿弥陀仏の本願と言っても、概念的な教理だけが先行すると「それは正しいのか間違いなのか」ということを問題にします。しかし、「苦諦」や「夕べには白骨」という自分自身の姿を通して聞いてみれば、「真実かどうか」というより「救われるかどうか」が問題になります。
ただ、迷っている私を救うのは真実しかないので、真実は声となり形となって顕れて下さったというのが、今の南無阿弥陀仏です。その真実を聞いて疑い無い身になって、これが真実と知らされます。
*1:じったい