安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「鮮明不動の信念=二種深信」ではありません(4月17日親鸞会テレビ座談会より)

4月17日に行われた、親鸞会のテレビ座談会参加者から頂いた情報より、気になったところを書きます。

二つ目の質問の内容は以下のものでした。

「歎異抄をひらく」 P186 /8行目にある

「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念

とはどのようなものだったのでしょうか?(4月17日テレビ座談会の質問)

これについての回答は、「二種深信」でした。その後、最後まで二種深信の説明が続きました。
この質問が出る直前まで、会長は「念仏は極楽の因か、地獄の業かということは、知らんは知らんでも知りすぎた知らん」という話をしていました。

当日の話をまとめると、以下のようなものです。

  • 二種深信=鮮明不動の信念
  • 鮮明不動の信念=「知りすぎた知らん」くらい知っている
  • 二種深信は、二つのことがハッキリ知らされる。地獄行き間違いない身とハッキリ知らされる。極楽行き間違いない身とハッキリ知らされる。

「二種深信=鮮明不動の信念(強烈な自覚とその体験)」ではありません。

二種深信は、真実信心、他力の信心のことであって、私の信念ではありません。
私が親鸞会在籍時に繰り返し聞いたことと、今回の内容は同じでした。
まとめると以下のような理解です。

  • 二種深信が立つと、二つのことがハッキリし、地獄行きの自分の姿がハッキリ知らされ、極楽行きの自分の姿がハッキリ知らされる。
  • 矛盾したことが同時に知らされる不可思議な世界。誰に聞かなくてもハッキリする鮮明不動の信念ができあがる。
  • 鮮明不動の信念ができあがるから、「知りすぎた知らん」と歎異抄2章で親鸞聖人は言われる。
  • そんな信念が出来あがるから、命がけの布教をせずにおれなくなる。

二種深信は、何かを強烈に自覚するという体験ではありません。真実信心のことを、二種深信といわれているのです。
もし、「二種深信=強烈な自覚を生む体験」となれば、「真実信心=体験」と言うことになりますから間違いです。

二種深信は、以下の文章です。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218

真実信心は、本願に疑い無い心であり、無疑心ともいわれます。
「深信」が、疑い無い心ですから、「一つには」「二つには」とあるのは、本願の内容です。
「出離の縁あることなし」である凡夫に、「さだめて往生を得」という本願を建てられたのが阿弥陀仏です。

二種深信が立つといっても、本願に疑い晴れたことであって、「強い自覚が生まれた」とは異なります。「こんな強い自覚が生まれたから、二種深信だ。だから私の信心は間違いないのだ」というのも、自覚が土台になっているので間違いです。本願が土台になっていません。
自らの力では「出離の縁あることなし」の私に対して、「願力に乗」れば「定めて往生を得」させるという本願に対して、疑い晴れたのが二種深信です。

「強い自覚」や「鮮明不動の信念」は、真実信心そのものとはまた別のもので、その人その人に応じてことなるものです。
「仏恩報ずる思い」と同じで、「仏恩報ずる思い」は共通であっても「どれくらい強く自覚しているか」は一人ひとり異なるものだからです。「これくらい仏恩報ずる思いがあるから間違いない」というものではなく、有るか無いかです。

二種深信も「どれだけ鮮明な自覚か」ということが問題ではなく、本願に疑いが有るか無いかです。
鮮明不動の信念(体験)=二種深信ではありません。

追記

最近のテレビ座談会では「念仏成仏これ真宗」のご和讃を根拠に出して話をしているようです。

今回「念仏で助かる」と何度も言っていたことに驚きました。
親鸞会に長くいましたが、「念仏で助かる」という言い回しはほとんど聞いた記憶がありませんでした。
ただ「念仏」とは何かという話は一切無く、前回と今回紹介したような「知りすぎた知らん」と「鮮明不動の信念である二種深信」と、確かにどこの歎異抄解説書にもないことを話すばかりでした。

「誰も書かなかったこと」を話したいのでしょうが、参詣している人は「親鸞聖人が教えられた本願念仏の教え」を聞きたいのです。