
聞法を始めてからお念仏をふとしたときにしますが、阿弥陀さまとであえている感じがしません。いつでもどこでも働かれて | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
念仏について親鸞聖人は「智慧の念仏」ともいわれています。阿弥陀仏の智慧の働きそのものであるということです。仏の智慧の働きは、人間には分からない領域なので、そういう意味ではよく分からないものです。
その分からない智慧の働きを、その通りと聞き受けるのもまた智慧の働きということになります。
これに加えて書きます。
口に南無阿弥陀仏と称えることを、浄土真宗では称名念仏といっております。そしてこの南無阿弥陀仏は、私の声ではなく、阿弥陀仏のはたらきとしての南無阿弥陀仏が私の口から出てくださっているのだと教えられています。
そういうことから、南無阿弥陀仏と念仏申す時にすでに阿弥陀さまがそこに出てこられているのだという話もよくされていると思います。
ただ、そう聞いても南無阿弥陀仏と称えているのは、間違いなく自分であり、聞こえてくる音声もいつも聞いている自分の声ですから、「阿弥陀さま」という方が新たに出てきて下さっている感じがしないと言われるのもよく分かります。
常に働いているのが阿弥陀仏
しかし、阿弥陀仏の私を助けようとする働きは私が南無阿弥陀仏と申すときだけではありません。私が念仏申すときも、そうでない時も常に働いて下さっています。間断することがないので、阿弥陀仏の光明を不断光ともいいます。
(12)
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば
心不断にて往生す(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版)P558)
このように「光明てらしてたえざれば」ですから、南無阿弥陀仏と称えている時も、称えてない時も実は阿弥陀仏にあっているのが私たちです。とはいえ、私が実際五感で何かを感じるのは南無阿弥陀仏と口で称え、耳で聞いている時です。
南無阿弥陀仏は智慧そのもの
この南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏そのものですが、なかなかそう感じられません。それは、阿弥陀仏は智慧そのものの仏であり、南無阿弥陀仏は仏の智慧が言葉となって現れて下さったものだからです。
ですから、親鸞聖人は「智慧の念仏」と書かれています。
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし(正像末和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P606)
阿弥陀仏の本願が成就して、南無阿弥陀仏となられました。その南無阿弥陀仏は智慧そのもの*1ですから、智慧の念仏と言われます。
南無阿弥陀仏を知らせるのも智慧のはたらき
そういう仏の智慧そのものである南無阿弥陀仏を、これが仏様そのものであると知る智慧は本来私たちは持ち合わせていません。
ですから、この南無阿弥陀仏を阿弥陀さまの働きであると知らせるのもまた、阿弥陀仏の智慧の働きによるものです。その働きが南無阿弥陀仏となって私に現れてくださっているので、念仏するときはそのように聞いてみてください。
南無阿弥陀仏が、私を助ける働きと聞いて疑い無い時は必ずあります。
*1:この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。( 尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P652)