安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「喜ぶとか伝えたい気持ちはこちら側の気持ちはわかりましたが、疑いを持たないのも同様にこちら側の気持ちということにならないのはどうしてですか?」(勉強中さんのコメント)

anjinmondou.hatenablog.jp
前回の記事についてコメントを頂きました。有り難うございました。

勉強中 2023-01-03 01:09:24
本願を聞いて疑いない本願は48願すべてか、18願のことかどちらですか?
喜ぶとか伝えたい気持ちはこちら側の気持ちはわかりましたが、疑いを持たないのも同様にこちら側の気持ちということにならないのはどうしてですか?
第9条は「親鸞もこの不審ありつるに」と過去形であると聞いたことがあります。つまり昔(信前)は喜べなかったということだと聞きました。本願を疑いなく聞いているのに喜べないのは合点の可能性はないのですか?

以下、コメントの内容について書きます。

本願を聞いて疑いない本願は48願すべてか、18願のことかどちらですか?

本願は、18願のことです。

喜ぶとか伝えたい気持ちはこちら側の気持ちはわかりましたが、疑いを持たないのも同様にこちら側の気持ちということにならないのはどうしてですか?

疑いを持たないとは、「本願を聞いて疑い無い」ことですから、本願抜きに自分の気持ちがこうなったということではありません。「疑い無い」だけに注目すると、自分の気持ちの変化をもって救われたかどうかを考えてしまいます。もちろん「本願を聞いて疑い無い」という上では、本願にあれこれ足して助かろうという心はありません。

第9条は「親鸞もこの不審ありつるに」と過去形であると聞いたことがあります。つまり昔(信前)は喜べなかったということだと聞きました。

第9条の引用箇所については
「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて」
と私も思っていたけれども
「いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。」
そういうものを救う本願があるから往生は一定なのだというところに落ち着いた。
という構成です。

「昔はこうだったけれども、ある時こうなった、それは今も続いている。」
というものです。

ですから、「いよいよ往生は一定とおもひたまふなり」の箇所も信前という意味にはなりません。
喜べない私が喜べるようになったのが救いである意味で書かれているものではありません。

本願を疑いなく聞いているのに喜べないのは合点の可能性はないのですか?

「本願を疑い無く聞いている」というのが、思い込みであるときは、そう言えます。
ただ、「喜べないから合点だ」とは言えません。

いわゆる
「救われたら喜ぶ心がある」
とは言えても
「喜ぶ心があるから救われている」
とは言えないのと同じ問題です。