安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私の称名念仏は「このように称えたから救われない」「このように称えたら救われるのでは」のどちらかです。これが「あれこれ値踏みをつけている」とはわかりますが、じゃあ値踏みをつけないで念仏しようというのも、別の値踏みだと思います。一体どうしたらよいでしょうか。(Peing質問箱に頂いた質問)

anjinmondou.hatenablog.jp
前回のエントリーについて、質問を頂きました。

f:id:yamamoya:20220223053007p:plain
Peing-質問箱-より

2022-02-20の安心問答の本編でお答えくださりありがとうございます。 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

「値踏みをつけないで念仏しようというのも、別の値踏みだと思います」というのはその通りです。
南無阿弥陀仏はそのものは、救いの働きそのものです。しかも私と別にあるものではありません。私が救われるために称える行ではなく、阿弥陀仏が私を助ける働きなので、ただ念仏してと言われます。
また、追記します。

これに加えて書きます。

称名念仏はそのものに私を救う働きがあるのですが、これは「称名するという私の行為」ではなく、「称名によって出てくださっている南無阿弥陀仏が私を救う働きがある」という意味です。

ですから、「値踏みをする」「値踏みをしない」または「値踏みをしないようにするという値踏み」「値踏みをしないようにするという値踏みをしないようにする値踏み」「値踏みをしない……(以下略)」を加えないと救う働きが発揮されないというものではありません。

また、「私が称えたことに応答して救ってくださる」というものでもありません。すでに私をただ今助けると喚び声となって喚ばれているのですから、私が称えて初めて喚んでくださるのではありません。

あくまでも「私が称えたら」という「行為」に対応する形で救って下さるのではなく、私に喚びかけ私の口から出てくださるような南無阿弥陀仏が私を救って下さるということです。私の口から称えられている「その」南無阿弥陀仏を、私を救う働きそのものであると聞いたのが信心といいます。

(80)
真宗念仏ききえつつ
 一念無疑なるをこそ
 希有最勝人とほめ
 正念をう*1とはさだめたれ高僧和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P592)

この和讃では「真宗念仏ききえつつ」と言われています。念仏は聞いて「一念無疑」となることを信心をうることだと言われています。


称名念仏すると、称える行為に目が向いてしまいますが、目をむけるのは聞くところの南無阿弥陀仏です。私が称えたという行為や称える時の心構えは一度忘れて南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

ただ今救うという喚び声通りにただ今救われて下さい。

*1:正念をう……【左訓】「往生の信心あるを正念を得とはいふ」(異本)