安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「もちろん悲しいかな18願の他力念仏は称えられません。だからといって、念仏称えることは間違いですか?」(りきいしさんのコメントより)

りきいしさんのコメントから思ったことをかきます。

もちろん悲しいかな18願の他力念仏は称えられません。だからといって、念仏称えることは間違いですか?(りきいしさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121006/1349513777#c1349785019


念仏は、私が口で称えられるような形になってくださった阿弥陀仏の行です。私の口から出て下される南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させる阿弥陀仏の行そのものです。
そこで、親鸞聖人は教行信証に、法然上人の選択本願念仏集を引文されて。

【67】 『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版))185)

http://6pu.fx.sl.pt

と書かれています。

そのことを続けて三選の文を引文されています。

【68】 またいはく(同 一二八五)(略)
正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。{以上}(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P186)

阿弥陀仏の本願によって選ばれた行ですから、「称名はかならず生ずること得」といわれてます。
また、阿弥陀仏によって選ばれた行ということは、私が自分で考えてあみだした行ではありません。
そのことを

【69】
 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P186)
(現代語版)
明らかに知ることができた。本願の念仏は、凡夫や聖者が自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏の働きかけによるものであるから、行者の側からすれば不回向の行というのである。大乗の聖者も小乗の聖者も、また重い罪の悪人も軽い罪の悪人も、みな同じく、この大いなる宝の海にたとえられる選択本願に帰し、念仏して成仏すべきである。

http://6pu.fx.sl.pt

そのことを、「不回向の行」といわれてます。念仏以外の行は、浄土往生を願って阿弥陀仏にふりむけなければ往生の行とはなりません。しかし、念仏は阿弥陀仏の本願によって私の往生の行として選び取られたものですから、私が回向する必要がそもそもない行なのです。

もともとそのように本願によって選ばれた行であり、「凡小自力の行にあらず」な念仏を、自分の行と思って称えるのは自力の念仏です。しかし、私が称えている念仏では浄土へ行けないというのは、考え違いです。「私が称えている念仏」は、私の行ではそもそもないからです。

この本願力回向の南無阿弥陀仏が、私を助ける働きであるとそのまま聞いて念仏してください。

上記につづいて、教行信証行巻に親鸞聖人はそのことを「行信に帰命」といわれています。このように書かれています。

【71】(略)
いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P186)
(現代語版)
まして、あらゆる世界のどんんあ衆生も、この行信をいただくなら、仏は摂め取って決してお捨てに成らない。だからこの仏を阿弥陀仏と申し上げるのである。これを他力という。

自分で勝手に念仏を自力にしたり、他力にしたりするのではなく、元より阿弥陀仏から働き掛けられている南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われてください。本願を信じ念仏するものは、決して捨てられないのが阿弥陀仏です。