安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏は大事だということはわかりました。しかし、称えていれば助かるというものでもない気がしますが?(頂いた質問)

念仏は大事だということはわかりました。しかし、称えていれば助かるというものでもない気がしますが?(頂いた質問)

これは「念仏」をどういう意味で使っているかによります。
「念仏」を自分の行と思ったり、あるいはこれだけ念仏称えているのだから何らかの救いの足しになるだろうと計らいを入れて称える念仏は、自力の念仏といわれ、それでは報土往生はできないと親鸞聖人は言われています。

しかるに係念我国の人、不可思議の仏力を疑惑して信受せず、善本徳本の尊号を、おのれが善根とす、みづから浄土に廻向せしむ、これを弥陀経の宗とす。このゆへに弥陀経往生といふ、他力の中の自力なり。(三経往生文類(略)・浄土真宗聖教全書2・P548)

南無阿弥陀仏そのものが私を救ってくださる働きと聞いても、それを計らって受け入れないために、自分の往生のための手段として称えている念仏は、阿弥陀経に説かれているものです。そのため弥陀経往生ともいわれ、他力の中の自力と親鸞聖人はいわれています。


親鸞聖人の言われる「念仏」は私の行でも、往生の足しになるというものでもありませんから「大行」といわれています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P141)

この「大行」といわれる「無碍光如来の名を称する」(念仏)は、私の行ではありません。
それで、続けて以下のように書かれます。

この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(同上)

この念仏は、「真如一実の功徳宝海」ですから、そのものが私を浄土往生させ速やかに仏にする働きがあります。

そして、阿弥陀如来からさしむけられて私が称えさせられる念仏ですから、正像末和讃の自然法爾章には

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるにより(自然法爾章・浄土真宗聖典(註釈版)P621)

と言われています。

阿弥陀仏の方から、南無阿弥陀仏とたのませて、浄土に迎えると働いてくださっています。その阿弥陀仏の本願の計らいが、私の口にあらわれる念仏です。

その念仏を称えるままが、浄土に往生する働きであると、聞いて疑わない人は、「念仏称えるまま救われる」という人です。しかし、そこに「これで助かるのか?」と計らいをいれる人は、「念仏称えていれば助かるということでいいのだろうか?」という自力の念仏行者となります。

「念仏と称えていれば云々」と言っている「念仏」が、自力の行であったり、大行とは思えないでいう場合には自力の念仏ですから報土往生はできません。

しかし、「念仏」は阿弥陀如来の大行であるという意味でいうと、念仏一つで報土往生する。南無阿弥陀仏一つで助かるというのが、阿弥陀仏の本願です。そう聞いて疑い無いのを信心といいます。
念仏は、阿弥陀仏のただ今救うの大行ですから、そのまま称えて、そのまま聞いて、ただ今救われてください。