安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「邪見のあるまま信心を得ることはできるのでしょうか。この邪見は晴れないのか。それとも本願を聞いていくうちに晴れるのか。それとも邪見のあるままで信を得られるのか。」(hatsukoixさんのコメントより)

id:hatsukoix 2019-09-16 15:52:33

以前41願について質問したものです

41願を「信心を得たショウジョウジュの菩薩は諸根が具足する」と読んでしまうという邪見を起こしてしまうという質問をしました
そこで山も山さんに、いろいろな解釈を読んでみるといいとアドバイスをもらって、さまざまな本を読んだのですが、どうしてもその解釈が気になってしまい、こういうのを「邪見」というのだと思います
この邪見はどうしたらいいのでしょうか
邪見のあるまま信心を得ることはできるのでしょうか
この邪見は晴れないのか
それとも本願を聞いていくうちに晴れるのか
それとも邪見のあるままで信を得られるのか

ずっと41願が気になっていてつらいです
他の人が躓かないような低レベルの場所で躓いてる自分は信心を頂けるのかとても不安です
ご教授いただけたら幸いです

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/09/10/213337

エントリーにするのが遅くなり申し訳ございませんでした。
41願の解釈について、悩まれているとのことですが、個人的には
「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、正覚を取らじ。」は、「他方国土の諸菩薩衆」とあるので、信心を獲た人にあてはめるのは難しいと思います。

とはいえ、id:hatsukoixさんが気になっていることは事実なので、41願の解釈そのもの以外の問いについて書いていきます。


個人として気になる41願の解説について、間違いだと思いつつも気になってしまうとのことですが、その気になる心はそのまま置いておかれたらいいと思います。なぜならば、自身が往生浄土する身に救われるかどうかという点においては直接関係がないからです。「この疑問が晴れない限り救われない」というの類いのものではありませんので、そのうちわかる時もくるだろうくらいの気持ちでおられたらいいと思います。


そういう意味での「邪見」(id:hatsukoixさんがいわれるところの)は、あるままで信心を獲ることはあります。なぜなら、本願疑惑が晴れない限りは信心とはなりませんが、41願の解釈についての疑問はもっていても信心とは関係がないからです。


十八願についての疑問ということならば話も変わってきますが、41願についてのいろんな考えは自分のなかで晴れるかもしれませんし、晴れないかもしれません。


もとより十方衆生を相手に必ず浄土に往生させて、仏にしてみせるという本願ですから、その中には、邪見なものも当然含まれています。
正信偈に

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。(正信偈大意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1028)

https://bit.ly/2kVUnr1

とあります。


これも、邪見のものは正見にならねば、憍慢のものは謙虚にならねば、悪衆生は善人にならねば救われないといわれてるわけではありません。ただ今救う本願ですから、ただ今が邪見なら、邪見のまま救われるということです。ただ今憍慢のものは憍慢のまま救われるということです。悪衆生は悪衆生のまま救われるということです。
ただ、南無阿弥陀仏を聞いて疑いないかどうかです。聞くか聞かないかが、信心かそうでないかの違い目です。


では、「難中之難無過斯」なのになぜ、信心を獲ることがあるのかといえば、それだけ阿弥陀仏の本願力が強いからです。

(37)
願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず(正像末和讃浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P606)

https://bit.ly/2kT4Wv5

と正像末和讃に親鸞聖人は仰っています。

id:hatsukoixさんが「邪見」を罪だと思われているのでしたら、「願力無窮」ですから心配はいりません。
こんな者は救われないと、自分を見捨てることはあっても、阿弥陀仏は決して見捨てられません。

ただ今救うと常に喚びかけておられますので、ただ今救われて下さい。

















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