安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。」(頂いた質問)

親鸞聖人の和讃に「定散自力の称名は果遂のちかいに帰してこそおしえざれども自然に真如の門に転入する」とありますが、果遂の誓いに帰してこそとは、どういう意味なのでしょうか。私のように自力念仏しか称えられない者は果遂の誓いに帰することが出来なければ18願に入り信心決定出来ないのでしょうか。(頂いた質問)

(66)
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する(浄土和讃_大経讚・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P568)

http://goo.gl/9iNpA

質問の和讚は、上記の浄土和讃です。
「果遂のちかひに帰してこそ」について、「果遂の誓い」が20願のことです。「帰する」は、入るということです。

お尋ねでは、「自力念仏しか称えられない者は、果遂の誓いに帰することができない」とありますが、浄土に心をむけて念仏している方は、すでに20願の中に入っている人です。そのため、質問された方は「自力の称名を称えている人は、今から20願にどうにかして入っていかねば救われない」という趣旨で質問されています。

しかし、ここは「自力の称名を称えている人も、20願の中に入っているので」という意味です。


なぜなら、自力の称名を称えているとう事自体が、20願の願力のお働きだからです。20願は、「まず自力の念仏を称えさせよう」という願ではありません。18願の他力念仏の救いを聞きながら、それを疑い自力の念仏を称えるものがいたとしても、そんなものでもなんとか化土になりとも往生させてやりたいと建てられた願です。そうは言っても、化土往生させるのが阿弥陀仏の本願ではありませんので、その本当の願いは、何とか18願の救いによって報土往生をさせてやりたいというものです。

たとえ自力の称名といっても、称えている念仏(南無阿弥陀仏)自体には私を救う働きがあるのですから、そのお働きによって「南無阿弥陀仏のお働きで18願に転入する」といわれたものです。

とくにこのご和讃は、20願の願の働きを讃えられたものですから、南無阿弥陀仏は、自力の念仏行者も決して見捨てられないという御心で建てられたということを、南無阿弥陀仏のお働きに焦点をあてて書かれたものです。

しかし、このご和讃を「自力の称名をまず励みなさい、そしたら自然にいつのまにか救われる」と思うのは大変な間違いです。自力の称名の功徳で報土往生できるのではありません。たとえ自力の称名であっても見捨てることはないという阿弥陀仏の御心からいえば、直ちに自力を捨てて他力に帰するべきです。

そのため、このご和讃の直後には、次のように言われて厳しく自力疑心を戒めて、他力の信を勧めておられます。

(67)
安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり(同上)

http://goo.gl/sMceS

「安楽浄土を願いつつ 他力の信をえぬ人」とは、「定散自力の称名」の人も当然入ります。その人で「仏智の不思議を疑い」「他力の信をえぬ人」は、化土にとどまるといわれ、報土往生はできないのだと戒められています。そして、疑いを離れ他力の信をえて報土往生を遂げなさいと勧めておられます。

お訪ねのように、私のようなものは20願にも入っていないとか、18願はまだ先という考えはもたれない方がいいです。また、自分はまだ20願に入っていないからまず20願に入ろうというのも間違いです。

ただ今救うの本願招喚の勅命が南無阿弥陀仏ですから、それを現在称えておられるということは、その仰せがすでに働いているということです。

ただ今救う本願ですから、ただ今救われます。