安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「①本願疑惑心とは違うような煩悩の疑いとは一体どのようなものがあるのでしょうか?(ブログには41願の例が出ていましたが) ②煩悩の疑いと本願疑惑心を決定的に分ける指標というのはあるのでしょうか?」(パロディさんのコメントより)

記事にするのが遅くなり申し訳ございませんでした。

パロディ (id:parotan) 2020-01-19 21:16

他の記事のコメントにもありましたが、煩悩の疑いと本願疑惑心を見分けるのが難しいと言う人は多いと思います(私もその一人です) ①見分けるのが難しいけれど、本願疑惑心とは違うような煩悩の疑いとは一体どのようなものがあるのでしょうか?(ブログには41願の例が出ていましたが) ②煩悩の疑いと本願疑惑心を決定的に分ける指標というのはあるのでしょうか?
難しい質問かとは思いますが、お答えいただければ幸いです 

心情といいますか、実感としての「疑う」は人を疑っても本願を疑ってもあまり違いはないと思います。元々仏教の真理を疑い心が決定しない状態を「疑」といいます。
ですから、阿弥陀仏の本願を聞いてもそれを疑い、その通りでございますと心が決定しない状態も「疑」といえますし、日常生活で他人から聞いたことを疑いその通りと受け入れない状態も疑です。


その時に起きる心の動きは、どちらもまず「本当かしら」という疑いから始まるのであまり見分けがつかないかと思います。


そこで、煩悩の疑いと本願疑惑心はどこで違うのかというと親鸞聖人の言葉の定義が違うという点です。
親鸞聖人は、自力心を本願を疑う心と定義されました。

じりきしん 自力心
行者自身のはからい、自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。
浄土真宗辞典

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根のたのむひとなり」(一念多念文意浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

こういう自力というのは、浄土があることそのものに疑いがあるわけでも、阿弥陀仏がましますことも疑いがあるわけでもありません。一般に言えば、阿弥陀仏の本願を信じている状態です。その上で、自分の力でなんとか浄土往生をしようと、また自力をなんとか浄土往生の手助けにしようと頑張っている状態です。それを親鸞聖人は本願を疑う心とされました。


いろいろと真宗の法話を聞かれたり、本を読まれたりしている時に、自分で「これは本当だろうか」と疑っている部分もあれば、この点については疑いはないというところまでいろいろとあると思います。


例えば、阿弥陀仏の救いは他力であるから自力は間に合わないという点は信じていても、その一方でなんとなく不安だからいろいろと本を開いたり、調べたり、心を落ちつかせる為にいろいろな手を講じることもあると思います。自分は信じているんだけど、なにかをしないと落ちつきませんという状態が自力心であり本願疑惑です。


自覚の上で阿弥陀仏の本願が受け入れられないというのも疑いなら、ここは疑っていないのだけれども心が落ち着かないというのも疑いです。前者と後者は自覚の上でも違いますが、本願を疑っているという点では同じです。
また、前者の自覚の上でも阿弥陀仏の本願が受け入れられないというのは、煩悩の疑いと分ける必要はあまりありません。なぜなら言葉の定義上はそこは明確に分けられていないからです。それに、どこからどこまでが煩悩の疑いで、ここからが本願疑惑という線引きが出来てからでないと救われないというものではないからです。


ただ今助ける本願だと聞いて、ただ今助ける本願でしたと聞き入れるところにはあれこれ自力をはたらかせることはありません。ただ今救う南無阿弥陀仏にただ今救われます。