安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「凡夫に現れる「善心」は「微」であり、暁の如く仄かと言われますが、それが既信と未信の発言に雲泥の差を生んでいると思われますがいかがでしょうか?」(猿松さんのコメントより)

猿松 2021-03-01 22:30:14
(略)
獲信された方と、私とを比べ何が違うかと考えましたところ、獲信された方々は「信心の智慧がある」と思われます。
言葉を代えて言うと「確固たる正解を知っている」といったところでしょうか。

そしてそのことは獲信された方々の御発言に現れていると思います。
勿論それは決して知識や学問から発したものではなく、またディベートの強さや口舌の巧さというものでもありません。
何故ならそれは善知識といわれる知識人だけからではなく、一文不知のお同行にも現れているからです。その典型例が庄松同行です。そういう信心の智慧から発せられるお言葉には一貫性があり、また説得力があるから「この人は何か持っておられる」と思ってしまいます。
そしてその御発言は他の獲信者とも共通するものがあり、「表現は違うが同じことを言われてる」と感じることは多々あります。やはりそれは共通の体験をなされているからだと思います。

ご本人は「変わらない」と言われますが、私から見れば大変な違いがあります。
凡夫に現れる「善心」は「微」であり、暁の如く仄かと言われますが、それが既信と未信の発言に雲泥の差を生んでいると思われますがいかがでしょうか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2021/02/21/072915

記事にするのが大変遅くなり申し訳ございませんでした。

「信心の智慧」というものは、特別な智慧が身に付くというよりは、阿弥陀仏を信じられるようになることをいいます。
言葉自体は正像末書かれています。

(35)
智慧の念仏うることは
 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧なかりせば
 いかでか涅槃をさとらまし(正像末和讃 浄土真宗聖典註釈版P606)

この信心の智慧について「弥陀のちかひは智慧にてましますゆゑに、信ずるこころの出でくるは智慧のおこるとしるべし」と親鸞聖人は註釈を書かれています。

阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏の智慧によってなされたものなので、私たちが考えても本当は分からないものです。それを信じるこころが出てきたということは智慧が起きたのだとここで言われています。

南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心ですから、南無阿弥陀仏を聞くようになります。ただ、それ以上に何か阿弥陀仏の智慧の世界を知ることができるような智慧まで身に付くわけではありません。南無阿弥陀仏を聞いて疑いないけれども、それ以外に何も分からないのが私というものです。


以前は私も、信心を獲れば「信心の智慧」という高い視座が身について、今まで見えなかったことを見通すことができるようになるのだろうと思っていました。しかし、南無阿弥陀仏を聞いて疑いない以外は何かが新しく見えるようにはなりません。それは煩悩が何も変わらないというからです。

ただ、本当の意味で聞きたいことが聞けたらそれ以上はもうありません。

聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(教行信証・総序・浄土真宗聖典註釈版

http://ur0.work/YRD4

聞きがたいことを、すでに聞いたと親鸞聖人は書かれています。南無阿弥陀仏が、私をただ今助けるという阿弥陀仏の働きであると聞いたら、それが一番聞きたかったことなのでそれ以上のことは、語弊はありますがそこまで知りたいことではなくなります。


南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いまでの考え方は、いろいろ疑問がありそれらを考え知ることで、いわば外堀を埋めることによって本丸の南無阿弥陀仏を知ろうと考えます。そのためあれも知りたいこれも知りたい、あれも気になるこれも気になるということでいろんな本を読んだり調べたりします。しかし、本丸の南無阿弥陀仏を、阿弥陀仏から聞いて疑いないならば、それらのあれも知りたいこれも知りたいはなくなります。

知ってもいいし知らなくてもいいものになります。それを知っても知らなくても私の往生とはなんの関係もないからです。

お尋ねのすでに南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い人と、そうでない人の違いはそのあたりです。
学問をしていろいろと知っている人も、そうでない人も共通しているのは南無阿弥陀仏を聞いて疑いない点です。
すでに南無阿弥陀仏という本丸を聞いているか、外堀をうめて本丸の南無阿弥陀仏に迫ろうとするかの違いです。一番聞きたいことは「すでに聞くことを得たり」ですが、それについてはいくらでも聞きたいという気持ちにまたなります。


もちろん「自分は分かった」と思っても、思い違いはいろいろとあるので重ねて聴聞することが大事です。