安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「まだ阿弥陀仏に救われていない私が称える念仏は、全て自力の念仏だと思っています。しかし、念仏は全て他力であると聞いたこともあります。この二つの関係がよく分かりません。」(頂いた質問)

まだ阿弥陀仏に救われていない私が称える念仏は、全て自力の念仏だと思っています。しかし、念仏は全て他力であると聞いたこともあります。この二つの関係がよく分かりません。(頂いた質問)

お尋ねでいわれている念仏というのは、称名念仏といいまして、口に南無阿弥陀仏と称えることをいいます。その念仏について、まだ阿弥陀仏に救われていない人が称える念仏を、自力の念仏ということもあります。

その反対の言葉として、他力の念仏といわれるものがあります。他力の念仏とは、阿弥陀仏に救われた後を他力念仏という人もあります。

そう聞くと、現在南無阿弥陀仏と念仏している人が、まだ阿弥陀仏に救われていないとすると、それは自力の念仏となり、その人が阿弥陀仏に救われると他力念仏となると理解されていると思います。このような理解はある点では正解ですが、それが全てと思うと間違ってしまいます。


なぜならば、念仏そのものは、阿弥陀仏の行そのものであり、称える人によってそのものがらが変わるのではないからです。
親鸞聖人は、念仏を大行と言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻より)

ここで「大行」とは「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」だといわれています。では、その「大行」とはなにかと言えば「無碍光如来の名を称する」ことだといわれています。いわゆる称名が大行だといわれています。そうなると、称名=大行となりますから、称名そのものは私の行ではないということになります。そう聞くと、「私が」南無阿弥陀仏と称えようと思って、南無阿弥陀仏と口に称えているのだから、これは「私の行」であって「阿弥陀仏の行」とは思えない方もあると思います。


そのように「阿弥陀仏の行」である南無阿弥陀仏を、「そうとは思えない」と疑い「これは私の行だ」と決めて、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具えた南無阿弥陀仏を私の往生の足しにしよう」と思って称えているのを自力の念仏といいます。


言い換えれば、念仏とは阿弥陀仏が私を助けようというお働きの顕れそのものなのですから、「南無阿弥陀仏と称うる」こと自体には自力とか、他力の違いは本来ありません。阿弥陀仏のお働きだという意味では、他力念仏です。


では、自力の念仏とか他力の念仏という違いは何によっていわれるのかと言えば、念仏を「自分の行」と思い往生の足しにしようとする人にとっては自力の念仏となります。また、念仏は全て阿弥陀仏の大行と疑い無く聞いて、南無阿弥陀仏と称うる人は、他力念仏といえます。なぜ他力念仏なのかといえば、阿弥陀仏のお働きに自分の力を加えないからです。手助けが必要な南無阿弥陀仏ではありません。


私が、そのように念仏するのも、念仏は全て阿弥陀仏のお働きによるのだと思わされるのも、全て南無阿弥陀仏のお働きだと聞き受けるのが他力信心だと、蓮如上人は言われています。

さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり。(御文章2帖目1通 御浚え)

今回は、お手紙で頂いた内容を元にエントリーを書きました。御覧になっていたら、ご不明な点はコメントでもメールでもいいのでお願いします。