安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏と唱え続けることによって疑いを晴らそうとしていますが全く疑い心はびくともしません。 これはどういったことでしょうか?」(みそみそさん・でんさん・ぷろぐれすさんのコメント)

前回のエントリーに頂いたコメントです。
3つ関連しているので一つの記事として書きます。コメントを書いて下さったみなさん有り難うございました。

みそみそ 2020-08-16 17:09:09
何度念仏しても疑い心が晴れません。むしろ疑いや迷いの心が湧き上がって、深まっていくばかりです。 私は以前、自力で本願への疑いを晴らすことは無理だ、南無阿弥陀仏の名号のお働きによってのみ晴らされるとお聞かせいただきました。
そこで南無阿弥陀仏と唱え続けることによって疑いを晴らそうとしていますが全く疑い心はびくともしません。 これはどういったことでしょうか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/08/14/004929

念仏を疑いを晴らすための「手段」「道具」と思って念仏されているのならば、それは間違いです。
念仏を称えることが、私の功徳となり、それによって救われるということはありません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証・化土巻・真門決釈 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)
(現代文)
大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

https://bit.ly/347sKzJ

浄土往生の因は、南無阿弥陀仏であり信心です。その信心とは、念仏を称えたことが私の功徳となって、それによって獲られるというものではありません。念仏を、南無阿弥陀仏を称え聞くままが信心となる信心です。私が南無阿弥陀仏と称える念仏を、阿弥陀仏の喚び声なのですが、そのように聞いてみてください。

そういう意味で、でんさんがコメントをされていますが、

でん  2020-08-16 21:14:10
称えて晴らすんじゃない… 聞いて晴れるもの… ですよね?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/08/14/004929

ということになります。

ただ、阿弥陀仏の本願からいうと、念仏するものを必ず浄土に生まれされるということですから、法然聖人も選択本願念仏集に

名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。(選択本願念仏集)

と言われています。
それを親鸞聖人は教行信証に引文されて

称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(教行信証行巻)

と言われています。

念仏そのものに、私を救う働きはあります。ただ、「念仏が私を救う」と聞いて疑い無い信心とならねば浄土往生は叶いません。
少し言葉を変えていいますと、「念仏するものを救う本願と聞いて疑い無い者」は必ず浄土に生まれます。しかし、「念仏するものを救うと聞いて、何とか称えて助けて頂こうとする者」はただちに浄土往生が定まるわけではありません。

「念仏称える者を助ける本願と聞いたので称えました。さあ助けて下さい」というのは、「念仏を称えたこと」を救いの条件として阿弥陀仏に提示して、救いを要求しているわけです。これでは、本願とは異なってきます。「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と聞いて疑い無く念仏するものは必ず浄土に往生します。

ぷろぐれす  2020-08-16 23:58:00
質問を重ねて申し訳ありません。 日常生活でもふと南無阿弥陀仏・・・と口ずさんでいます(自分では唱えるという感覚ではありませんが)。 自分で唱える念仏は本願力によるものと考えるべきなのでしょうか? 段々と本願力によるものだと思えてくるのでしょうか? 信心決定したらそう思えるのでしょうか? または、信心決定した後の念仏は全く別物なのでしょうか? 宜しくお願い致しますm(__)m

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/08/14/004929

私の口から出て下さる念仏・南無阿弥陀仏は本願力よよるものです。
それが、段々と思えてくるかについては、本願を聞いて疑い無いとなると、段々そう思えるようになってきます。それ以前に理解としては、聴聞をしているとそのように理解は出来てきます。
「信心決定した後の念仏は全く別物なのか」については、別物ともいえますし変わらないとも言えます。

別物だということについては、御文章にも書かれています。ただし気持ちの上での話です。

正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。(御文章1帖目1通)

念仏が正定の業であると聞いてみると、念仏を申す心も、「称えてなんとかしよう」と言う心とは全く別物になります。

もう一つの変わらないという点については、昔も今も念仏は「南無阿弥陀仏」としか聞こえてきません。信心決定の上の念仏が、何か別の南無阿弥陀仏になるということはありません。南無阿弥陀仏はいつでも、どこでも南無阿弥陀仏です。そこは何も変わりません。