anjinmondou.hatenablog.jp
について質問を頂きました。
ワタ 2021-04-17 09:23:45
すみません。質問させてください。
>この「疑心なし」は「阿弥陀仏が」疑心なしであって「私が」疑心なしではありません。信心を得ても本願に対する疑いの心は起こるという認識でいいのでしょうか?
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2021/03/24/060406
阿弥陀仏から見れば疑いようもない、間違いない。 でも衆生の視点ではよくわからないというのが実情だと思っています。
「衆生側から見た場合、疑いの心が全く起きない」とはならないと思っていますが、あってますでしょうか?
それであっていると思います。
前回の記事については「疑いない」という言葉を使っての質問だったので、それを受けて誰が何に疑い無いということなのかについて書きました。
質問された方の使われる「疑い」については、いわゆる通常私たちが使う日本語としての意味で問われていたのでそう答えました。
うたがい 【疑】
はっきりしない事柄について思いまどうこと。また、よくないことがあるのではないかと思うこと。(精選版日本国語大辞典)
うたがいなく 【疑い無く】
〔その事の実現・正否などについて〕どの点から見ても疑う余地が全くないと判断する様子。(新明解国語辞典第八版)
こういう意味での「疑い無い」が「私が本願についてどの点から見ても疑う余地が全くないと判断する」ということにはならないという意味で書いたのでワタさんの言われた通りです。
本願について「どの点から見ても疑う余地が全くないと判断する」ような智慧が身に付くことはありません。そういう「よく分からない」という所からの疑問は起きます。
では、私の側から言った場合の「疑い無い」というのどういうことかと言えば、「計らう心がない」「自力がない」ということです。
浄土真宗辞典では、「疑い」に関して、以下のように書かれていまず。
ぎじょう 疑情
疑いの心のこと。親鸞は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはらう心とする。(→自力心)
じりきしん 自力心
行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の歩本願を疑う心とした。(→自力)
ここで、阿弥陀仏の本願を疑う心について、それを「行者自身のはからい」「自力によって往生すること」と定義されています。
そういうものは全くないという意味で「疑い無い(自力無い)」という身になります。
もちろん、疑えばこふあれこれと計らって自分でなんとかしようとするので、自力については以下のように定義されています。
じりき 自力
自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること、『一多文意』には「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(浄土真宗聖典註釈版P688)とある。
阿弥陀仏の方から私を助けようと働いて下さっているのですが、それが中々聞き入れることができないので、「やはり自分で何かしなければならないのでは」と自分の修めた善根によってなんとかしようとします。
書いていると少々ややこしくなって来ましたが、「本願を疑う」から「自力であれこれしようとする」のですが、一度「ただ今助ける本願だ」と聞けば「自力であれこれしようとする」必要はなくなります。
しかし、「自力であれこれしようとする心」はありませんが、「本願を判断できるような智慧が身に付く」ということはないので、分からないという意味での疑問はいろいろと起きるということです。
そういう疑問は起きても、浄土往生ができなくなるというようなものではないので、いろいろと学ぶご縁になればいいと思います。