念仏が大事と分かりましたが、親鸞聖人の教えは信心が大事なのではないでしょうか?(頂いた質問)
信心が大事なのはおっしゃる通りです。しかし、信心と念仏を別のものとして考え、たとえば「信心を先にまずえよう。念仏はその後だ」とか「念仏を称えよう、信心はその後だ」というのは間違いです。なぜなら、親鸞聖人は信心と念仏を切り離して教えられてはいないからです。
教行信証で言えば、念仏について書かれているのは行巻です。信心について書かれているのが信巻です。行(念仏)から信(信心)を別にわけて書かれたものですが、その行と信は不離といわれてもともと全く別な二つのものではありません。
親鸞聖人の書かれたものには「行信」とか「心行」とあるのはそのことをあらわされたものです。
いくつか例を挙げると
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P132)
http://goo.gl/JLC1Y
ここで「行信」といわれています。
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行*1を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P307)
http://goo.gl/FekOX
ここで「心行」とあるのは「信心と念仏」です。阿弥陀仏から信心と念仏を回向される、差し向けて頂くということです。
さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(親鸞聖人御消息(7)*2・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P749・末灯鈔11通)
http://goo.gl/iH0Yo
ここでは「信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」とよりわかりやすく、行と信が不離の関係であることを言われています。
このように言われるのも、親鸞聖人の教えられる「念仏」は、阿弥陀如来から差し向けられているところの「大行」だからです。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P141)
(顕浄土真実教行証文類 (現代語版)より)http://goo.gl/1hjH9つつしんで、往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。
阿弥陀如来が私に差し向けてくださるのは「信心だけ」ではありません。「念仏と信心」を差し向けてくださるのです。
その「念仏」とは、南無阿弥陀仏のことであり、「汝一心正念にして直ちに来れ」と呼びかけられる阿弥陀仏の喚び声そのものです。その南無阿弥陀仏(行・念仏)を、疑い無く聞いたことを信心(信)というのです。ですから、行(念仏)と信(信心)は別になりようがありません。
耳慣れない言い方だと思われる方もあるかもしれませんが、念仏を信じたのが信心ということです。いつもこのブログで書いている言い方でいえば、「ただ今助ける」の仰せを聞いて疑い無いのが信心ということです。
そのため、信心為本といっても、その信心がなにか念仏と独立しているものではなく、「行信不離」の関係にあるものです。どこかの団体のように「信心」と「念仏」を完全に分離すると、そこから派生して、真実と方便についてもよくわからないことになってしまいます。
この私が南無阿弥陀仏と称えるままが、阿弥陀仏から与えて頂いた大行であり、その仰せを聞いて疑い無いのが信心です。またそのように聞いて称える念仏者は、必ず報恩の心になり念仏するので、称名報恩ともいわれます。
参照リンク
浄土真宗聖典(註釈版第二版)|本願寺出版社
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