安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信前、信後を分けるものは廃立だと思うのですが、ある布教使はそれも分別であり迷いだと仰ってました。どう理解したら良いでしょうか?」(Peing質問箱)

f:id:yamamoya:20200919130610j:image

Peing-質問箱に頂いた質問について、加えて書きます。

 

廃立の意味について、浄土真宗辞典から引用します。

 

はいりゅう 廃立

一方を廃し、一方を真実として立てるという意。法然は聖道・浄土、正行・雑行、正定業・助業の廃立を説く。

法然聖人は、聖道を廃し、浄土を真実として立てられ、浄土門の中でも、雑行を廃し、正行を立てられ、正行の中でも、助業を廃し、正定業(念仏)を立てられました。

 

これは何によって救われるのかということを行についていわれたものです。

 

また、質問に書かれた信前信後は何によって分かれるのかという点については、信疑決判という言葉があります。

 

浄土真宗事典より引用します。

しんぎけっぱん 信疑決判

阿弥陀仏の本願を信じるか疑うかによって、浄土に往生できるか迷いの世界にとどまるかが分かれることを明らかにしたこと。

『選択集』には「まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」(七註1248)とある。このもんについて親鸞は『銘文』(註666)で詳細な解釈を施し、「正信偈」には「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。

すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。」(註207)と述べている。

何によって救われるのか、何によって迷いを続けていくのかについて、浄土真宗の教えではこういうことだという定義がなされています。

阿弥陀仏の本願を信ずれば浄土に往生し、疑えば迷いの世界に止まると言われています。

 

そこて、信心がそうでないかは、阿弥陀仏の本願を信じているか、疑っているかで分かれます。そこで親鸞聖人は、信心とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑う心のないことだといわれます。別の言い方をすると、阿弥陀仏の本願に対して疑心があるかないかで分かれます。

 

こういう言い方をすると、それは分別だいう言い方も出来ます。ただ、お尋ねされた文面の「それも分別であり、迷いだ」というのは、単に言葉の上で疑いとはこういうもの、念仏でければならない、雑行は廃されたものと理解をしてそれですましてしまえば、それは迷いだという意味で言われたものではないかと思います。

 

ただ知っているだけならば、分別の話となりますが、その通りと聞いて疑いないときは、また違います。そのことを御文章ではこう書かれています。

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。

「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。〔御文章1条目1通)

前半の「昔は雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり」は、なんとなく念仏なら間違いはないのだろうと聞いているだけという状態です。

 

これは「念仏ならよい」と「ききわけて」いますが、それは自分の方で決めている話なので、それは「分別であり、迷い」となります。

 

 

後半の「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに」は、念仏ひとつと聞いて疑いない状態をいいます。

 

聞いて疑いないという意味で「ききわけ」ているなら「それは分別であり、迷い」とは言えません。

 

質問された方がどういう場面で言われたかによって話も変わってきますので、どちらの意味で言われたのかはわかりません。

 

ただ実際に「正雑の分別をききわけ」た人にも、そう言われると誤解をされることもあるもおもいます。