安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。」(求道者Kさんコメントより)

求道者さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
コメント欄にも一部書いたものに書き足してエントリーを書きます。ただし、質問も長文なので、何回かにわけていきます。よろしくお願い致します。
コメントより

>阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。
これについては、真宗では「称名」そのものも、阿弥陀仏の念仏申させるお働きという説明をします。ですから、念仏するという行為そのものは、「私の側の特定の行為の有無で救うか救わないかが別れるという条件」には成りません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480339098

上記はコメント欄に私が書いたものです。
それ以降の、求道者Kさんのコメントには

親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。(求道者Kさんのコメントより)

自然の浄土と親鸞聖人がいわれているところは、以下の部分です。

(71)
念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
  権実真仮をわかずして
  自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)
(76)
五濁悪世のわれらこそ
 金剛の信心ばかりにて
 ながく生死をすてはてて
 自然の浄土にいたるなれ(高僧和讃)

どちらも同じ意味で「無為自然の浄土」という意味で使われています。

無為自然。さとりの世界は有無の分別を離れ、分別による限定を離れた絶対無限の境地であることをいう。親鸞はこの場合も「自ら然り」という静的なものではなく、「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。(浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

または、自然とは涅槃の別名でもあります。
ですから、自然の浄土とは阿弥陀仏のさとりの領域をあらわされています。そこは、人間の計らいを離れた状態にあります。


「往生浄土は当然の成り行きではないか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願力によって救われて行くので、その本願力によれば浄土往生は誰でもできます。ただ、阿弥陀仏の本願では、罪の大小や性別、年齢などによっての違いはありませんが、本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると誓われています。
その意味では、死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではありません。「願力成就の報土には、自力の心行いたらねば」(高僧和讃)といわれるように、自力修行の人は浄土にいたることは出来ないといわれています。自然の成り行きで浄土往生はできません。

すみませんが、続きは次のエントリーに書きます。よろしくお願い致します。