安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?」(ototanさんのコメントより)

ototanさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメントが長文の為、引用するのは一部分になります。

ototan 2017/03/05 10:24
 今回の山も山さんのお言葉は、何度読み返しても、凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?
 かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488677090

本願を信じない人は、浄土に往生できないと私は書いています。
上記のコメントの文章にも書かれていますが、阿弥陀仏の御慈悲の対象に限定もありませんし、差別もありません。長い目で見れば、阿弥陀仏の本願で浄土往生しない人はありませんが、ただ浄土に往生するのは、本願を信じ念仏する人です。しかし、それも長い目で見れば今本願を信じない人も、本願力によって本願を信じるようにさせていただくときが来ます。念仏しない人も、何時かは念仏する時が来ます。その意味で狭いはたらきの本願ではありません。

御慈悲には分別はありませんが、ただ今本願を信じているかいないかについては私の側には時間差はあります。一個人でも、以前は本願を信じていなかった時はあります。

 極端な言い方をすれば、南無阿弥陀仏を知っていようと知っていまいと、信じるか信じないか、阿弥陀さんにはどっちでも良くて凡夫が他力によって救われることは揺るぎないのではないでしょうか。(ototanさんのコメント)

どっちでもいいとは思いません。念仏を勧め、信心を勧められた親鸞聖人の教えはそのためにあったと思います。

(1)
弥陀の名号となへつつ

 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃 冠頭讃)


念仏するものでも、信心まことに獲る人は仏恩報ずるおもいありと親鸞聖人はいわれています。
第三者の往生はわかりませんが、念仏申している人の中でも、本願信ずる人と疑っている人では結果が違うと親鸞聖人はいわれています。