安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を獲たいと真宗のみ教えを聞かせて頂いておりますが、最近スランプと申しますか、聴聞やお勤めも一首のノルマ化してしまって「数をこなせば」という考えに陥っています。というのも聴聞やお勤めを重ねても」成果」ということが感じられず、それどころか、進んでいるのか下がっているのかさえも分からない状態です。」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-

信心を獲たいと真宗のみ教えを聞かせていただいておりますが、最近スランプと申しますか、聴聞やお勤めも一種のノルマ | Peing -質問箱-


質問箱には以下のように書きました。

以前は、聴聞や勤行に熱を入れていたけれども最近はそういう熱気が無くなってしまったという事だと思います。
阿弥陀仏の救いは時間がかかるものだとどこかで納得してしまったのではないかと思います。実際先が見えないと人間やる気がなくなってしまうものです。
進むも下がるもありません、ただ今助けるというのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今助からない事自体が本願から言えばおかしな状態であるということに目を向けてみてください。

これに加えて書きます。

これまでは「信心を獲たい」との思いが強かったと思いますが、お尋ねの文章を読むとスランプから脱したいという思いなのだと思いました。

御一代記聞書に以下のものがあります。

(175)
一 心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなきなりと仰せられ候ふ。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc175・浄土真宗聖典註釈版P1286)

「数をこなせば」という考えに陥っています。(質問文より)

とのことですが、もちろん聞法は大事ですが、数を重ねる事で信心が獲られるという考えは間違いです。この考えを改めることも大事ですが、それは「心中をあらためん」と思っているに過ぎません。自分の何か至らないところを改めれば何時か救われるという所に戻ってきてしまいます。それは「数をこなせば」が「心中をあらためれば」に変わったに過ぎません。


もう一つ質問文で

聴聞やお勤めを重ねても、「成果」ということが感じられず(同)

と書かれていましたが、そんな「成果」はもともとありません。それを以前は感じられていたとすれば、それは「知識が身に付いた」「理解が深まった」「求道している感」のどれかです。


「自分は正しい道を進んでいる」とか「自分は正しい側にいる」という感覚は、人を元気づけます。それが感じられなくなって今悩んでおられると書かれています。しかし、それは阿弥陀仏から見られた自分の姿がそのように知らされたという点では良い事だと思います。


阿弥陀仏は、そんな進むも下がるもできないような、何が正しい道か分からない私を助けるために、ただ今助けるという本願を建てられています。ただ今助けると言う事は、「正しい道を進んで来い」という事ではありません。


かつて「自分は進んでいる」と感じていた事があったとすれば、其れはただの幻想に過ぎません。夢の中でマラソン競技に参加していたようなものです。夢の中で、10キロ地点か、20キロ地点まで走ったあたりで、「これってただの夢ではないか」と気がついたような状態です。夢の中ですからどれだけ快調に走ったとしても、実際は布団の中で一歩も進んでいません。布団から一歩も出られない状態のようなのが私の姿ですから、「正しい道を進む」ということは阿弥陀仏も期待されていません。


聴聞やお勤めをした「その先」に救いがあるのではありません。ただ今救うのが阿弥陀仏です。阿弥陀仏は、ただ今助けるとの呼びかけを南無阿弥陀仏と喚ばれています。その南無阿弥陀仏を、ただ今助けるとの阿弥陀仏の勅命と聞いて疑いないのが信心です。

「何かの先」ではなく「ただ今」助ける阿弥陀仏に、ただただ今救われてください。