安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を得るには、仏書や聴聞などできるだけ法に触れたほうがいいですか」(Peing質問箱より)

f:id:yamamoya:20200911155209p:plain
信心を得るには、仏書や聴聞などできるだけ法に触れたほうがいいですか | Peing -質問箱-

Peing-質問箱に上記の質問を頂きました。加えて書きます。

信心を得るには、できるだけ法に触れることは大事なことです。
ただ、聴聞しないよりはした方がいいですし、仏書を読まないよりは読んだ方がいいです。しかし、そういう環境を調えていれば信心を獲やすいと考えるのならば間違いです。

なぜなら、信心を獲る方法というものは無いからです。方法がないというとは、助かるまでに時間的空間的な隔たりがないからそのように言われます。信心を獲るというのが、時間的に先の話であればそれまでどう過ごしたらよいかというのが問題になります。また空間的に離れた場所のことであれば、そこまでどうやって行こうかということが問題になります。

しかし、「いまこの瞬間」のことならば、「それまでどう過ごそう」ということは問題になりません。また、「今いるこの場所」でのことならば「どうやってそこまで行こう」ということは問題になりません。

お尋ねの文面からすると、信心とか助かるということについて、時間的に空間的に先のことを想定して言われているのではないかと思います。ここではないどこかで救われるということはありません。ただ今救われます。


親鸞聖人は、南無阿弥陀仏が救って下さるという以外に、こういうことをすれば早く救われるというこは言われていません。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序・浄土真宗聖典註釈版P132)

摂取不捨の真言、超世希有の正法とは私を摂めとって捨てられない南無阿弥陀仏のことです。その南無阿弥陀仏を聞いた通りに思いなさいというのが聞思してということです。こちらであれこれ計らわすに聞いた通りと受け入れることをいいます。そして、あれこれ計らってはなりませんと言われています。


ここで「聞思して」というのには、前提条件はありません。仏書をよく読んでから聞思しなさいとは言われていません。今が聴聞の場ならば、その時に聞思するということです。また、聴聞の場でないときでも聞思するということです。なぜなら、いつでもどこでも南無阿弥陀仏は私に向かってただ今助けると呼びかけられています。それを聞思すると、計らいなく聞き入れたのが助かったという信心になります。


信心や救いは遠いところにはありません。ただ今助けるという南無阿弥陀仏の通りにただ今救われて下さい。