安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願の生起本末を聞いたら、疑いが晴れるのですか?」(かさねさんのコメントより)

かさね 2020-09-26 17:15:27
本願の生起本末を聞いたら、疑いが晴れるのですか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/09/19/163353

結論からいうと、南無阿弥陀仏をその通りと聞いたら疑いが晴れます。


「本願の生起本末」については、いろいろなお聖教や、法話でも聞くことは出来ますし、聞かれたこともあると思います。もちろん、初めて聞いた時はいろいろと疑問もあると思います。しかし、何度聞いても疑いがあるという人は実際にいらっしゃいます。重ねて聞いて、理屈としては分かりますという人もおられます。では、この理屈としては分かるというのは、疑心がないのでしょうか?少しややこしい言い方になりますが、「理屈はわかるが疑心はある」という状態だと思います。

では、聞いたとはどういうことかというのが、お訊ねされていることに関係する親鸞聖人のお言葉です。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典註釈版P251)

http://ur0.work/VPyJ

「聞」とは、阿弥陀仏が本願を建てられた生起本末を聞いて疑心あることないことだと言われています。
そして、その「聞」がそのまま「信心」であると言われるので、「聞即信」といわれるところです。


ですから、ここで言われているのは、私が聞いたかどうか、信心かどうかは「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」であるかどうかであると言われています。その意味で、お尋ねのように「本願の生起本末を聞いたら疑いが晴れる」と言われているのではありません。


仏願の生起本末とは、阿弥陀仏が私を自力では生死を離れることができないことを見て取られて、本願を建て南無阿弥陀仏となられて現に私を救おうと私に呼び掛け働きかけ続けておられるということです。いわば、現に南無阿弥陀仏が私を救おうとされているいわれが、仏願の生起本末です。


ここで、実際に私を救って下さるのは「仏願の生起本末」ではなく「南無阿弥陀仏」です。いわゆる「本願招喚の勅命であるところの南無阿弥陀仏」が私を救って下さいますし、現に私に呼び掛けられています。


仏願の生起本末を聞いて、南無阿弥陀仏と申してそれを本願招喚の勅命と聞いている人は、また聞いて疑い無い身になっている人です。
お聖教も法話も、仏願の生起本末が説かれています。そこを重ねて聞いて下さい。しかし、「仏願の生起本末を繰り返し聞くことで助かる」のではなく、南無阿弥陀仏を聞いたら疑い晴れる点はよく知っておいて下さい。


ただ今救うの南無阿弥陀仏を、ただ今聞いてただ今救われて下さい。