安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうしても私の『思い』からは逃れられません。他力の念仏の称え方と言うのはあるのでしょうか?」(頂いた質問)

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『「私が称える→助かる」という図式ではなく、「念仏するものを救う本願が救う」という意味』と教えていただきましたが | Peing -質問箱-
Peing質問箱に頂いた質問について、加えて書きます。

「他力念仏」について、浄土真宗辞典から引用します。

たりきねんぶつ 他力念仏
自力念仏に対する語。阿弥陀仏の本願を信じて一心に名号を称することで、第十八願弘願の念仏をいう。

「他力の念仏の称え方」というのはありませんが、意味から言えば、阿弥陀仏の本願を信じて一心になることです。
また、名号そのものに私を助ける働きがあるのであって、私の「称える行為」には助ける力はありません。

どうしても「助かりたい」の気持ちが先に出るのは人情としてよくわかります。しかし、「助かりたいから助けて下さい」では、阿弥陀仏の本願とは違ってきます。なぜなら、阿弥陀仏の本願は、私がお願いをしたから助けて下さると言うのものではないからです。阿弥陀仏は、私の願いに先立って本願を建てられ、私が願うより前に助けるとよびかけられています。

それに対して、「私がどうすれば助かるか」を中心に考えるのは、阿弥陀仏の喚び声に耳を塞ぐというか、阿弥陀仏の口を塞いで、私の願いを聞いてもらおうとしているようなものです。具体的に書くとこういうやりとりをしているようなものです。

阿弥陀仏「ただ今助け・・」
「私を助けて下さい」
阿弥陀仏「ただ今た」
「どうすれば助かるんでしょうか」
阿弥陀仏「ただ今…」
「私の思いから逃れられません」
阿弥陀仏「ちょっと黙って私の声を聞いてくれませんか」

世の中には、人に話をさせない話術をもった人もたまにおられます。丁度そのように、阿弥陀仏のよびかけを遮るように自分の話をカットインしているのが私たちです。これでは、いつまで経っても阿弥陀仏の本願を「聞く」ことは出来ません。阿弥陀仏の声を聞かない私だから「聞きなさい」と勧められるのです。

私の言いたい、聞いてもらいたいを少し横において、阿弥陀仏の言いたい、助けたいを聞いて下さい。ただ今助けるの本願に、ただ今救われます。