「南無阿弥陀仏を聞くのは誰でしょうか?」(ぱるるさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄から、抜粋したものと、それに関連して追記したものをエントリーします。
こむら 2012/09/25 17:15
yamamoyamaさんへ>すべて他力なので、私が「聞く」という「行為」も本来は必要としないのです。
まだいまいちわかりません。
私が名号を聞かなければ、阿弥陀仏も私を往生させることはできないのですから、名号を聞くという私の行為は必要なのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348560913
yamamoya 2012/09/25 17:51
こむらさん「聞其名号」といわれる「聞」については、親鸞聖人は「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。」と定義なさっています。私の「聞くという行為そのものを」聞といわれているのではありません。もし、「聞くという行為」を「聞」としますと、私が聞くという私の三業を加えた結果として救われることになるので、すべて他力によって救われるということになりません。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348563096
「聞其名号」の「聞」は、上記にあげた親鸞聖人の定義にしたがうと、私の計らいを差し挟まずに本願の仰せを受け入れたことをいいます。そこで蓮如上人は「一心に弥陀に帰命」とか「弥陀をたのむ」と表現されたのが「聞」です。
こむら 2012/09/26 03:45
なるほど。「聞」というのは、まだ聞いていない名号をこれから聞くという「聞」ではなく、すでに名号を聞いている状態のことを「聞」と言われている。
そういうことですか?
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348598744
yamamoya 2012/09/26 04:51
こむらさん「聞即信」の言葉のとおりで、聞とは信心をあらわすことばです。言われる「すでに名号を聞いている状態(信)」のことです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120924/1348477228#c1348602676
ここから、追記として書きます。
「聞其名号」とも言われるので、「聞く」という行為にどうしても力が入ってしまいます。その結果、「真剣に聞かねば」「どのように聞いたらいいのだろうか」と聞き方を問題にしたり、「誰から聞いたらいいのだろう」と知識選びを問題にすることになります。
しかし、よくよく考えると名号を聞いて助かるのですから、聞き方以前にその人が南無阿弥陀仏のことをそれほど信用していなければ意味のないことになります。
阿弥陀仏の本願はただ今救う本願であるということを、信じているからこそどこかの法話に足を運んだり、御聖教を自分で読んだり、念仏したりします。それでも、「実感がない」とか「ただ今救われるとはなかなか思えない」という気持ちはぬぐえません。そこで、間違いないと思えない法を、聞き方や知識の力を加えることで間違いないのない法にしようと努力をします。
しかし、大前提として法を間違いないものとしていないので、聞いたといっても聞いたことにはなりません。阿弥陀仏の本願も、名号もただの文字やお話ではありません。
親鸞聖人は、教行信証真仏土巻に往生論註を引文されています。
〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。{乃至}いふところの〈不虚作住持〉は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。(顕浄土真実教行証文類・真仏土文類5 真仏土釈引文・浄土真宗聖典(註釈版)P361)
http://6us.t0.sl.pt
ここで「不虚作住持功徳成就」とは、阿弥陀仏の願力は虚妄なものではなく衆生を完全に救い遂げるものであるという意味です。
ですから「願徒然ならず、力虚設ならず」といわれています。阿弥陀仏の願いとっても、いたづらことになるようなただの努力目標でも、ただ願っているだけのものではありません。本願力も、実際に私を助ける働きがあるもので、「ほんとうにただ今助けられるのか?」と疑念を差し挟むようなものではありません。その本願力は私に向けられているものですから、私と関係ない方向に働くことはありません。
五劫の思惟と兆載永劫の行によって、「力願あひ符うて、畢竟じて差はず。」願いと力がぴったりと一致して、少しも食い違うことがありません。そのことを本願成就といいます。
そういうものが本願力であり、南無阿弥陀仏です。私を救う法です。それを聞いたのが信心というものです。そのような本願力が、現在私に働いているからただ今救われます。ただ今救う本願を、ただ今聞いて下さい。