安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「しまいには疑うことにも疲れて、自分にとって耳心地の良い話をかいつまんで『大丈夫。阿弥陀様がなんとかしてくれる。』とそんな気持ちを誤魔化しながら、日常に埋没していっている自分がいます。」(みそみそさんのコメント)

みそみそさんよりコメントを頂きました。

みそみそ 2020-07-09 18:19:12
聞けば聞くほど迷いや疑いが深まっていきます。何度聞いても疑いの心が晴れません。本願を信じることが出来ません。
それどころか、しまいには疑うことにも疲れて、自分にとって耳心地の良い話をかいつまんで「大丈夫。阿弥陀様がなんとかしてくれる。」とそんな気持ちを誤魔化しながら、日常に埋没していっている自分がいます。

どこまで行っても疑いと迷いから抜け出せずとても辛いです。もういい加減こんな状態から解放されたいです。

このみそみそさんのコメントについて、でんさん、YGMさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

でん 2020-07-10 09:52:16

迷いや疑いが深まるって、どういうことだろう?
私は、これ以上疑いようもないドン底だと思う。
言ってること、書かれてることが難しいというのであれば、
それが疑いを深めることにはならないと思います。

YGM 2020-07-10 16:09:03

Toみそみそさん
 疑いや迷いから抜け出せる能力や考え方、キッカケがあって抜け出せるのではありません。 
その疑いや迷いをなんとかしようとするのが自力です。なんとかしようとすればするだけ、ぐるぐる回ります。
ですから他力を聞くんです。
どこまで行っても疑いと迷いから自力で抜け出せません。どこまで行ってもというのは、今生の何十年間の話ではなく、生死を繰り返してきたずーっと過去から、今後ずーっとのことです。もううんざりイヤになるという言葉では表現しきれませんね。
ですから他力を聞くんです。

疑いの心が晴れないことに苦しい思いをされているのは文面からもよく伝わってきました。しかし、必ず疑い晴れるという時はあります。
そこで、みそみそさんは、疑いの心に対してなんとかしようと取り組んだり、どうにもならないと感じる時はそれを別のもので誤魔化していこうとされています。しかし、それではいつまで経っても変化はありません。なぜならば、疑いと戦って勝利することが信心ではないからです。どんな努力をしたとしても、疑いを自分の力で晴らすことはできません。「一生懸命聞いた」という私の行為によって疑いが晴れるのではありません。あくまでも、疑いは阿弥陀仏のお力によって晴れるものです。

そのことを、親鸞聖人は教行信証の最初にこう書かれています。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。(総序 浄土真宗聖典註釈版P131)

https://bit.ly/3gLZNwk

難信金剛の信楽とは、真実信心のことです。それは、疑いを除いてさとりをえさせる真理であると言われます。私の疑いを除くのは、真実信心であり南無阿弥陀仏にその働きがあります。


自分の心に向き合うのではなく、南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と称え聞いてみてください。ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いてみると、疑いは晴れます。疑いを捨ててから南無阿弥陀仏を聞くのではなく、南無阿弥陀仏を聞いたままが疑い晴れた姿です。それには時間が懸かりませんし、私の力もいりません。ただ、南無阿弥陀仏と称え、ただ今助けると聞いて救われて下さい。