安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀様はどうして、自分を犠牲にしてまで衆生の為に、兆載永劫の修行をして下さったのでしょうか?何の得にもならないのに、、」(頂いた質問)

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阿弥陀様はどうして、自分を犠牲にしてまで衆生の為に、兆載永劫の修行をしてくださったのでしょうか?何の得にもならな | Peing -質問箱-
peingに頂いた質問に、上記のように回答しました。それに加えて書きます。

今日の私の生活は、損か得かで物事を判断する場面が多く有ります。自分にとってメリットは何か、デメリットは何か。コストパフォーマンスがいいか悪いかということは、よく話題に上ります。
もちろん、私も現在の日本に生きている以上、経済社会と無縁に生きることはできません。そして、長引く不況や会社や地域共同体の崩壊も相まっていわゆる「今だけ、金だけ、私だけ」という損得の考えになりがちです。私はそういう考えが多くなることも、よく分かりますし、それだけ現実の社会はいろいろと生きづらいです。

そういう観点から言えば、阿弥陀仏の本願は、質問文にあるように「自分を犠牲にして」「何の得にもならない」ことを「どうしてそこまでできるのですか?」「何のメリットもないのに」と見えます。
しかし、阿弥陀仏の本願は私たちの願いと違うのは、自分中心ではなく、助ける衆生を中心として建てられました。

それは、仏説無量寿経に、法蔵菩薩が世自在王仏に対して「讃仏偈」を言われる場面で説かれています。

たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ(浄土真宗聖典註釈版P13)

https://bit.ly/3hoNDK0

すべての人を救う本願を建てようという法蔵菩薩が、世自在王仏に対して言われている言葉です。ここで「もろもろの苦毒」というのは、インドの原典では無間地獄と書かれています。私を救う為になら無間地獄へ落ちたとしても、自分が為すべきことをして、後悔はしないと言われています。


なぜなら、法蔵菩薩にとって、苦しむ私がいること自体が大変な苦しみだからです。その私を救うことは、法蔵菩薩にとっても自分を救うことと同じ喜びがあります。例えて言えば、自分の苦しみを抜く為のコストは、苦しみが抜けることによるリターンによって相殺されるので、損をしたという感覚にはなりません。長年処分しなければならないと思っていた、家の不用品を片づける時は、手間ひまがかかりますが、片づけるとすっきりします。同じように、阿弥陀仏に取ってみると、私が迷いを重ねるという状態は、「どうにも我慢がならないこと」なのです。


その「どうにも我慢がならないこと」を解決するのに、五劫思惟され、兆載永劫の修行をされたのが法蔵菩薩であり、阿弥陀仏です。
ですから、阿弥陀仏が私を救うことは、阿弥陀仏にとって損得でいえば得になります。それくらい、私が迷い続けるということは阿弥陀仏にとって「どうにも我慢がならない」ことなのです。その阿弥陀仏の願いを聞いて下さい。ただ今救われます。