ツリーさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
>浄土真宗で念仏といえば、「称名念仏」のことをいわれます
確かにそのように、書かれてある本もあります。では、「念仏で助かる」は正しいのでしょうか?
もう少し説明頂けませんか?(ツリーさんのコメント)
「念仏で助かる」は、正しいです。
この場合は「第18願の他力念仏で助かる」という意味です。
私が念仏を称えたという、私の行為の功徳で助かるという意味ではありません。
第18願の他力念仏で助かるということについては、親鸞聖人は尊号真像銘文の中で、法然上人の選択本願念仏集を解説されたところに書かれています。
「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。(尊号真像銘文15・註釈版聖典P666)
正定の業とは、この私の往生浄土と成仏の原因となる働きをいいます。その正定の業は、仏名を称えることであり、念仏のことです。
それを「称名必得生」といわれ、称名念仏するものは必ず浄土に往生するのであり、それは「依仏本願故」阿弥陀仏の本願に誓われているからです。
こう聞くと、信心正因が浄土真宗であって、念仏正因ではないのではないかと思われる方もあると思います。
称名(念仏)が正定の業であり、私を往生浄土させる働きがあるといった場合は、私が念仏を称えるという「私の行為」(口の動き)ではなくて、称えられたところの念仏(南無阿弥陀仏)のことをいわれます。
称名は、称念仏名のことで、南無阿弥陀仏を称えることです。口の動きとしては「なむあみだぶつ」「なまんだぶつ」「なまんだーぶつ」「なもあみだぶつ」など、人によって言い方は多少異なりますが、6・7回口を動かし発声をしています。この口の動きそのものに、私が往生する働きがあるのではありません。南無阿弥陀仏と称えられた、「南無阿弥陀仏」に私を助ける働きが有るのです。
「なむあみだぶつ」なのか「なもあみだぶつ」なのか、「なまんだぶつ」なのか、どう言ったらよいのでしょうかと言う人がありますが、称えられる南無阿弥陀仏が大事なのですから私の言い方は問題ではありません、*1
/) ///) /,.=゙''"/ / i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁいいんだよ!! / / _,.-‐'~/⌒ ⌒\ / ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\ / ノ il゙フ::::⌒(__人__)⌒::: \ ,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| | / iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
名号といっても、信心といっても、称名(念仏)といっても、それは働いている場による呼び名が違うのであって、どれも同じ南無阿弥陀仏です。
名号といった場合は、阿弥陀仏の救いの力や、お働きそのものを指すときに使われます。
信心といった場合は、その名号が私の心の上で働いておられるときに使われます。
称名(念仏)といった場合は、名号が私の口で働いておられるすがたというときに使います。
上記の意味で、名号が私を助ける力があると言っても、信心一つで救われると言っても、称名(念仏)で救われると言っても同じ事です。
念仏と聞くと、自分の口で動かして発声している行為そのもののように思ってしまう方もありますが、称えさせられているところの南無阿弥陀仏が私を救って下さると言うことです。