安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(南無阿弥陀仏と)称えている最中に『これはつれてゆくぞと仰っているんだなあ』と考えなければならないのですか、私は特に何も考えずに称えていますが(頂いた質問)

南無阿弥陀仏は「心配するな」「つれてゆくぞ」だと聞いておりますが、称えている最中に「これはつれてゆくぞと仰ってい | Peing -質問箱-
こちらに書いたことに追加して書きます。
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念仏については、一声一声称えるごとにその意味を「これはつれてゆくぞと仰っている」と考える必要はありません。
もちろん、南無阿弥陀仏の六字のいわれについてはお聖教をはじめとして、いろいろな方がいろいろ書かれています。それぞれの説明はどれも有り難いものです。

しかし、それは南無阿弥陀仏をその説明の意味だと自分で一端受け止め、脳内で変換してから聞くということではありません。なぜなら、すでに質問された方は南無阿弥陀仏はどういうものかを聞いているからです。何かの呪文や、まじないだと思って称えているわけではありません。

それならば、南無阿弥陀仏は、声となって称えられるものですから、その声を声として聞いた方がいいです。
質問箱の回答で、俳句を例に出しましたが、有名な俳句は細かい説明もありますが、耳で聞いて見るとそれで伝わるものがあります。
俳句で一つ例を揚げると、松尾芭蕉の「松島や ああ松島や 松島や」というのがあります。私は、松島に直接行ったことはありませんが、そういう俳句が浮かんできた気持ちや風景がそこに浮かんできます。


南無阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏とただ称え聞くところに私が往生するという思いが起こります。


そのことを親鸞聖人は、西方指南鈔に法然聖人のお言葉として以下のように書かれています。

たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(西方指南抄「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)

ここで「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」と言われています。自分の煩悩のことや、罪の大小を考えず、ただ口で南無阿弥陀仏と称えて、その称え聞いた南無阿弥陀仏について往生が定まったという思いをなすのだと言われています。その往生定まった心を信心といい、その信心が備われば、必ず浄土に往生します。


そのことを歎異抄第2条では「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と言われています。


私の口から出て来られる南無阿弥陀仏を聞いたことろに、決定往生の心がさだまります。それは、一端自分で南無阿弥陀仏の意味を考えた上で出てくることではありません。なぜなら、自分で南無阿弥陀仏の意味を変換しているからです。

南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏と聞いて救われて下さい。