安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏するものを救って下さると信じるのは間違いだそうです。信じる内容が間違っています。」(Wilou::Ji**さんのコメントより)「念仏するものを救う本願」≠「念仏称えた時救う本願」について

「信心が大事とは聞きますが、お念仏についてはどう考えたらいいでしょうか?」(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)にコメントを頂きました。有り難うございました。

Wilou::Ji** 2014/06/19 05:35
>念仏するものを救うと聞いて、念仏するものがこの行(念仏)に疑う心の少しもなきを信の一念と言われています。

私も数年前にご本願の意味を親鸞会に電話して確かめたのですが、念仏するものを救って下さると信じるのは間違いだそうです。信じる内容が間違っています。乃至の意味を調べて頂くとご理解頂けると思います。絶対にご訂正下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140614/1402734194#c1403123728

まず最初に、親鸞会の解説は結論からいうと間違いです。別の場所でも確認されることをお勧めします。

そこでコメントの「念仏するものを救って下さると信じるのは間違い」について、以下書いて行きます。

もし私が書いた文章が「念仏称えた時救う本願」としたならば、間違いです。しかし、「念仏するものを救う本願」と書いていますから、これは間違いではありません。


つまり、「念仏称えた時救う本願」≠「念仏するものを救う本願」です。コメントに出てきた親鸞会の解説は「念仏称えた時救う本願」「念仏するものを救う本願」となっているので間違いです。

そこで、なぜ「念仏するものを救う本願」≠「念仏称えた時救う本願」なのかについて書きます。

なぜ「念仏するものを救う本願」≠「念仏称えた時救う本願」なのか ?

前回のエントリーにも書きましたが、真宗で「念仏」とは、阿弥陀仏の行(大行)であり、私を助ける法のことを指します。法とは、いつからいつまで、とか、どこからどこまでと言った時間や場所の限定が無いものです。ですから、「念仏するものを助ける本願」と書かれたところはあっても、「念仏した時助ける本願」というように念仏に時をつけて書かれた箇所は親鸞聖人にはありません。


一例をあげると、親鸞聖人御消息には以下のようにあります。

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(御消息26 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P785)

http://goo.gl/Z6pYGl

「念仏往生と信ずる」とは、どういうことかについて「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」と書かれています。ここでも「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」とは書かれていますが、「名号をとなへた時そのものを極楽へ迎へん」とは書かれていません。念仏往生とは、念仏称えた時往生が定まるとか往生するという意味ではありません。阿弥陀仏の行(念仏)が私を往生させる行であり法であるということです。


そこで、称えたとき助かるのではなかったらいつ助かるのですか?と疑問に思われる人もあると思います。「いつ助かる」という「時」をいうのは、信心でいいます。信心は、阿弥陀仏の行である南無阿弥陀仏を聞き入れたことですから、聞き入れた時というのがあります。本願を聞いて疑い無い時とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」る時です。ただし、その時というのは親鸞聖人は「時剋の極促」と言われているように、私たちが考える時とは違います。


ですから、歎異抄の第一条にも、念仏称えた時助かるとは言われていません。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄第一条 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P831)

http://goo.gl/qhfdZy

この「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とありますのは「とき」ですから信心のことを言われています。




以上書いて来たことをまとめますと以下のようになります。

なぜ「念仏するものを救う本願」≠「念仏称えた時救う本願」なのか ?

  • 念仏は真宗では阿弥陀仏の行(法)をいうのであって、私の行ではない
  • 念仏は法であるから時をいわない
  • 時をいうのは信心のこと
  • 念仏するものを救う本願とは言えても、念仏称えた時救う本願とはいえない。もし時をいうなら信心定まった時救われる本願といわねばならない。
  • 「念仏するものを救う本願」というときの「念仏」は法だが、「念仏称えた時救い本願」と書いた時の「念仏」は「私の行」となるのでイコールにならない。

第十八願文の「乃至十念」について

コメントに乃至の意味を調べると分かるとありました。これについて、shinrankalusoさんよりすでにコメントを頂いたことが根拠になります。

shinrankaiuso 2014/06/19 11:18
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140614/1402734194#c1403144307

ここで「遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざること」とあります。念仏には時を定めないということです。これは、念仏は法であって、「念仏称えた時に救う」などということはないといわれたものです。


繰り返しますが、「念仏するものを救う本願」という言い方は親鸞聖人がされているものです。(「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」
その念仏するものを救う本願であると、疑いなく聞いたのを信心といいます。別の言い方をすると法を聞いて疑いないのが信心です。その信心定まった時が、往生定まる時です。

以上の理由からWilou::Ji**さんが言われるように訂正する必要は無いと考えております。