安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうして自分は救われないのかと悩んでいましたが、本来の自分というのは救われない者なのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

どうして自分は救われないのかと悩んでいましたが、本来の自分というのは救われない者なのでしょうか? | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

阿弥陀仏が本願を建てられたのは、自らの力では生死を離れることができない私をあわれに思われたからでした。
その意味からいえば、阿弥陀仏の本願寺があるから、本来の私の姿が「自らの力で助かるように変化した」ということはありません。
「私を助ける」と言われても、私は昔も今も自分の力ではどうにもならないものです。

これに加えて書きます。


私というものは、阿弥陀仏が本願を建てられた時から何も変わっていません。
そのことを歎異抄から紹介します。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意(歎異抄第3条・浄土真宗聖典(註釈版第二版) (p.1116). 本願寺出版社)

阿弥陀仏が本願を建てられたことによって、私そのものが「助からない私から助かる私」になった訳ではありません。相変わらず、私の姿そのものは何も変わりはありません。

「どうして自分は救われないのか」について

そこで「どうして自分は救われないのか」について、言葉は同じでも別の事を考えている人もいます。

「自分自身が助かる資質を持っている」前提の人

「本来自分は助かる資質をもっているのにどうして自分は救われないのか?」と考える人もあると思います。しかし、これに関しては本来の私は「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」ものですから、間違いです。
また、「本来助かる資質がある」と考える人は「まだ救われないのは、何かが足らないからだ」と考えて何かを付け足す事にばかり心を向けてしまいます。しかし、どれだけ付け足しても救いに手が届くと言う事はありません。


また、こういう人は「本来助かる資質がある」という前提に立つので、「救われない原因を自分の中」に探そうとします。よくあるのが「疑情が原因だ」と「疑情」を自分の心の中に探そうとします。しかし、そういう場合は「疑情」「自力」がなかなかわかりません。分からないので「自分はまだそこまで至っていないのだ。真剣に聴聞を重ねればそのうち分かるはずだ」と考えます。


この場合「疑情さえ分かれば自分は助かる」「自力がわかれば自分は助かる」という考えが疑情・自力となるので、当の本人が一番気がつき難いと思います。

「必ず助ける本願があるのにどうして自分は救われないのか」という人

もう一つは「必ず助けると阿弥陀仏は本願を建てておられるのにどうして自分は救われないのか」という人です。
この場合「必ず助ける本願」と聞いている訳ですから、本来なら助かるのが本願の道理です。お尋ねにあるように、「本来の自分は救われない者」です。その私を助けるために本願は建てられました。

そこで、「やはり自分に何かが足らないのか」と考え始めると、先の例の通りになってしまうので、そちらには行かないでください。

この「必ず助ける本願があるのにどうして自分は救われないのか」が疑情・自力と言うものです。こんなものはどうしようもないと思われるでしょうが、それは捨てて他力をたのむのが、浄土真宗の信心です。ただ今助ける南無阿弥陀仏を、ただ今助ける法と聞いて下さい。