安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「かるがゆえに領解も機にはとどまず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。」(安心決定鈔)の意味がよく分かりません。(頂いた質問)

前回のエントリー
anjinmondou.hatenablog.jp
について、質問を頂きました。有り難うございました。

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Peing-質問箱-より

2021-08-07のエントリーの安心決定鈔の御文を尊く読ませていただきました。 | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように書きました。

「領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる」
というのは、私が名号を聞き入れたといってもそれは私の心の中から出てきたものでもないので、私の心にずっととどまるようなものではなく、阿弥陀仏の本願からあらわれたものなので本願そのものであるとなるという意味です。称える念仏も同様に、私の中からでてきたものではないので阿弥陀仏の本願そのものとなるということです。

これに加えて書きます。

元々のお尋ねの安心決定鈔は、以下の部分です。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。(安心決定鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1387)

ここで文末に、「かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり」とあります。浄土の教えは、第十八願をよくよくこころうる以外にないといわれています。

その具体的な説明として、「領解」と「名号」について、両方とも「機にはとどまらず」「仏願の体(弘願)にかへる」といわれています。


領解というのは信心と言い換えてもいいので、信心も念仏も、私の心の中から出てきたものではありません。もし、私の心の中から出てきたものならば「機にとどまる」ということもありますが、そうはなりません。では、信心も念仏もどこにあるのかといえば、「仏願の体(弘願)にかへる」とあるので、第十八願にあります。


そこで、信心も念仏も第十八願をこころうることになります。私の心にとどまるような「確かなもの」はありません。


そのことを、上記のご文の続きの部分にこのように書かれています。

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。(同)

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第十八願をこころうるにというのは、南無阿弥陀仏をこころうるということです。南無阿弥陀仏をこころうるというのは、阿弥陀仏が私になりかわって浄土往生の願と行を成就して、私の往生が、私にさきだって成就したときに、すべての人の往生を仏のさとりそのものとしてくださったといういわれを聞き入れることをいいます。

まとめ

最初の文章から、私の願行ではなく、阿弥陀仏の願行である南無阿弥陀仏によって救われることがかかれています。

そこで信心も念仏も、私の願行でない以上は、私の口から出たものでも心から出たものでもありません。そのため、この機にとどまることはありません。「仏願の体(弘願)にかへる」というのは、本来の出所といいますか、何によって現れたのかということをいえば第十八願なので、そこへ帰るのだといわれています。信心も念仏も、第十八願をこころうるに以外にないこといわれています。


では、第十八願をこころうるとはどういうことかについて、二番目に紹介したご文では、それは南無阿弥陀仏をこころうる事であり、南無阿弥陀仏のいわれ(第十八願のいわれ)をこころうることだといわれています。

そう聞き入れて疑い無い状態を信心といい、口に南無阿弥陀仏と称えることを念仏といいます。そういうことを書かれたものです。

お尋ねにあった三縁の中の親縁とは、無関係ではないのですが意味が違います。

①親縁。衆生が口業で仏名を称え、身業で仏を礼拝し、意業で仏を念じる時、これらを仏は聞き、見て、知り、衆生と仏は互いに憶念しあうという密接不離の関係にあること。(浄土真宗辞典P236)