安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願から除かれる人はいるのでしょうか。声の出せない人、体の弱い人、ヒトラー、精神錯乱者、、、など」(頂いた質問)

本願から除かれる人はいるのでしょうか 声の出せない人、体の弱い人、ヒトラー、精神錯乱者、、、など | Peing -質問箱-

質問箱に届いた質問について書きます。
本願から除かれる人はいません。もし「こういう人は最初から対象外」という人がいれば、すべてのものを救うという本願がそもそも成立しなくなってしまいます。
身体的な能力や、その人に属する属性によって選別をされないのが阿弥陀仏の本願です。


唯信鈔文意に、以下のことを書かれています。

「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
(唯信鈔文意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P704)

https://onl.tw/mPw7eqA

ここで言われているのは「不簡」が四回続けて使われいます。「不簡」とは「えらばず」と読みます。阿弥陀仏は救いについて「簡ばない」のです。言い替えると、「こういう人は助ける」「こういう人は助けない」という選別をされないということです。また「こういう人は助けられる」「こういう人は助けられない」ということもありません。
「貧窮と富貴(経済的な差)」で選別されません、「下智と高才(智慧や学の差)」で選別されません、「多聞持浄戒(聞いた数や功徳の多少)」でえらばれません。「破戒罪根深(罪の多少)」でえらばれません。


なぜ選ばないのかと言えば、理由は二つあります。
一つは、阿弥陀仏は助ける力が強いので、相手の属性で選ぶ必要がないからです。「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず」*1と言われるように、年齢にも善悪にも制限がありません。
二つは、助ける人数にも制限がないからです。本願に「十方衆生」と誓われていますように、特定の人数しか助けられないという本願ではありません。

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例えば、電力会社を各家庭で決めるとなれば会社は一つに限られるので一つだけ選んであとは除外することになります。しかし、阿弥陀仏は一人だけしか救えない仏様ではありませんので相手を選ぶ必要はありません。



そこで、唯信鈔文意には続きの部分について親鸞聖人はこう書かれています。

「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。(同上)

個人的な属性についての心配はありませんが、「ひとへに回心せしめよ」と勧めておられます。「回心」とは「自力の心をひるがへし、すつるをいふなり」と言われています。自力のこころを翻して捨てよと勧めておられます。


では、自力のこころを捨てるとはどういうことかについて、続けて以下のように親鸞聖人は書かれています。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(同上)

自力の心を捨てるというのは、どんな人でも、自分がこれでよい、これで助かるだろうという心を捨て、自分自身をあてにせず、また悪い心に囚われず、一筋に阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏を疑い無く聞き入れ信ずれば、煩悩をそのままで救われるのだと言われています。


質問されている内容からすれば「あしきこころをかへりみず」ということです。阿弥陀仏の本願は、選ばない本願なので、救われた人を見て「あの人は阿弥陀仏に選ばれた人だ」と見る必要はありません。反対に、自分はまだまだだと思う時に「自分は阿弥陀仏に選ばれなかったんだ」と落ち込む必要もありません。
私の属性で選ばないということは、阿弥陀仏の救いを聞く時に自分をよく見せようとする必要もなければ、「自分のような者は……」と卑屈になる必要もないということです。また、「ありのままで」と自然体になろうとする必要もありません。


とはいえ、自分自身を振り返っても人に誇れるようなものはありませんので、多くの人は「みづからが身をよしとおもふこころ」を捨てるよりは「あしきこころをかへりみず」の方が当てはまるのではないかと思います。
そういう私に対して親鸞聖人はこのように言われています。

れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。(同上)

猟師や商人(れふし・あき人)は当時社会的に蔑まれた職業でした。それらに代表されるような、「自分は社会的に選び捨てられた」と感じる人を「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれら」といわれています。
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石・瓦・礫というのは金のような価値のないものの総称です。人が探して見つけるようなものではありません。金を探すような人からは、選び捨てられるのが石・瓦・礫です。誰も振り向かない、顧みられないそういう存在をいわれています。
「地上の星ある星を誰も覚えていない」(地上の星・中島みゆき)と歌にもありましたが、星でも誰も覚えていないのですから、石ならなおさら誰も振り向きません。


そんな私が阿弥陀仏の本願を疑い無く信ずれば、摂取の光に収め取られて、必ず真如の証をひらかせて頂けることを、「能令瓦礫変成金」「れふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへる」と言われています。


自分は本願から除かれている者だと思っている人、選ばれなかったと思っている人を、石を金に変えて下さるのだというこに譬えていわれたものです。自分の今のありさまや、属性をもって自分は選ばれないと思う必要はありません。ただ今救うと喚びかけられるのが南無阿弥陀仏です。

ただ今救うという仰せを聞いてただ今救われて下さい。

*1:歎異抄第1条 https://onl.tw/3DEDJL6